―――こんにちは。
私は、大妖精です。
みんなからは、よく『大ちゃん』って呼ばれます。

 

―――私には、名前がありません。

 


―――物心ついた時から、私は『大妖精』でした。
特定の名前を持たない、『大妖精』。肩書きみたいなものです。
私はこの『大妖精』という呼び名―――というと語弊がありますが―――が、何だか無機質な感じがして、あんまり好きではありませんでした。

 

―――だから。
だから、誰かが『大ちゃん』というあだ名をつけてくれた時、私は本当に嬉しかったです。
名前の無い私にとって、ニックネームの誕生は、まるで名前を貰えたような嬉しさと、温かさがありました。
今でも、誰かが私を『大ちゃん』と呼んでくれる度に、心の中でお礼を言っています。

 

 

 

―――だけど、私には名前がありません。

 

 

 


―――抜けるような、雲一つ無い青空。
午後の暖かな日差しが差し込む湖面を、二人の少女が滑空する。

「ほらほら大ちゃん、置いてっちゃうよ〜?」

「ま、待ってよチルノちゃん!」

チルノと、大妖精。
仲良しの二人は、いつも一緒に遊んでいる。
この日は特に目的意識を持って出掛けている訳では無く、単に散歩のようだ。
やがて湖を通り過ぎた二人は、湖のほとりに降り立つ。
思いっきり伸びをしながら、チルノが言った。

「あ〜、気持ちよかった。ね、大ちゃん?」

「う、うん……」

若干の疲れも見えるが、大妖精も頷いた。

「んじゃ、歩こっか」

「……うん」

チルノが先に、湖畔の道を歩き始める。その後を追う大妖精。
後方の大妖精の様子をチラチラと伺いながら、チルノは首を傾げた。

(……やっぱり大ちゃん、何だか元気がない)

チルノが彼女の異変を察知したのは、三日前の事だ。
いつものように遊びに行ったチルノは、明らかに大妖精の様子がおかしいのを目撃したのだ。
いつ、誰に対しても明るい笑顔を振りまく大妖精。だが、その時の彼女は暗い顔で、湖面をぼーっと見ながらため息をついていた。
その手には、何かを抱えている。

「大ちゃん、どうしたの?」

チルノが後ろから声をかけると、慌てて大妖精が振り向いた。

「あっ、チルノちゃん……ど、どうしたのって?」

そう言って笑顔を見せるが、親友のチルノには分かる。取り繕った笑顔だと。
同時に、持っていた何かを後ろ手に隠した。

「いや、なんか落ち込んでるみたいだったからさ……何か嫌な事でもあったの?あたいでよければ、相談に乗るけど……」

心配そうに言うチルノに、大妖精は手をぶんぶんと振った。

「や、やだなぁ。落ち込んでなんかないよ……それより、何して遊ぶ?」

「そうかなぁ……まあいいか」

その場はそれで終わりだったが、チルノは釈然としないものを感じていた。持っていた何かは、いつの間にか家にでも置いて来ていたらしく、気付いたらもう持っていなかった。
それから毎日、チルノは彼女を遊びに誘った。彼女はいつもOKしてくれた。
遊んでいる時は楽しそうな大妖精。しかし時折、ため息と共にあの暗い顔が覗くのを、チルノは見逃さなかった。
二人だけじゃつまらないのかも、と考えたチルノは、他の友人も誘ってみた。
だが、結果は同じだった。総勢十人近いメンバーで遊んでいる時でも、彼女のあの落ち込んだ顔が見えた。むしろ、余計に元気が無くなった気がした。
この日、湖の上を思いっきり飛んでみよう、と提案したのもチルノだった。湖面スレスレをスピードを出して滑空するのは、きっと良い気持ちに違いないと思った。
そして、大妖精の悩みも一緒に吹き飛ばしてくれるかもしれない―――そんな淡い期待もあった。
だが、気持ちは良かったものの、悩みまでは吹き飛ばしてくれなかったようだ。
大妖精の表情を盗み見ながら、チルノは珍しくため息。
親友が悩んでいるのを何とかしてあげたい。けど、原因も分からないし、そもそも本人が何も話してくれない。もどかしい思いが、チルノの心で交錯する。

(あたいに相談してくれればいいのに……あたいってそんなに頼りないかなぁ)

と、その時。

「よっ、何してんだ?」

考え事の最中に前方からいきなり声を掛けられ、二人は驚いて立ち止まった。

「お前ら何時見てもセットだよな。仲良しで羨ましいぜ」

声の主は霧雨魔理沙だった。けらけら笑う彼女に、チルノは言う。

「びっくりしたなぁ、もう。おどかさないでよ」

それを聞いた魔理沙は、また笑う。

「はは、おどかすなって言われてもな。私は普通にここにいて、お前らの方がやって来たんだぜ。な、霊夢」

「ええ、そうね」

すぐには気付かなかったが、魔理沙の後ろには確かに博麗霊夢の姿もある。彼女はどうやら木陰に座っているようだ。

「何してるの?」

チルノが当たり前のような疑問を投げかけると、魔理沙は、

「ん?ああ、いわゆる優雅な午後のお茶会ってヤツだよ。暇だったんで霊夢とお菓子作ってたんだけど、あんまり天気がいいからさ」

そう言いながら、霊夢の方を見る。
チルノがそれに倣うと、霊夢はシートを敷いて、その上に座っている事が分かった。
他にもシートの上にはお茶が入っているらしき水筒や、バスケットに入った色とりどりのクッキーやパンケーキ、カステラなどの洋菓子類。
洋菓子の中に何故かどら焼きが混じっているのは、多分霊夢の趣味だろうか。湯呑みで飲んでいる所からして、お茶も緑茶らしい。ある意味、見事な和洋折衷だ。

「丁度いいや、お前らもお茶にしていきな。量だけはあるから、好きなだけ食っていいぜ」

「え、ホント!?」

予想外の嬉しい申し出に、興奮気味のチルノ。

「いいだろ、霊夢?」

魔理沙が念の為、といった口調で確認すると、霊夢は黙って手招き。

「やった!ありがとう、二人とも!」

喜びを隠そうともせず、チルノは靴を脱いでシートの上に飛び乗る。

「湯呑み余分に持ってきて、正解だったわね」

苦笑しながら霊夢がバスケットから湯呑みを二つ取り出し、水筒を手に取った。
と、ここで。魔理沙は、大妖精が先程から何の反応も示さず、突っ立っている事に気付いた。顔の向きは下に固定され、やはり暗い表情の彼女。

「大ちゃん、どした?具合でも悪いのか?」

魔理沙が声を掛けるが、反応無し。
魔理沙は、今度はすぐ目の前まで行ってから、声を掛ける。

「お〜い、ど・う・し・た〜?」

言いながら大妖精の肩を揺さぶる。ビクリ、と肩を竦ませ、ようやく大妖精は気付いた。

「わっ、わっ!!……あ、その、すいません、魔理沙さん」

目を白黒させてうろたえる大妖精に、魔理沙は首を傾げた。

「どうしたんだ?なんか様子がおかしいぞ……まあいいさ、とりあえず座りな。お茶入れるぜ」

「あ、は、はい……いただき、ます」

慌てて大妖精は靴を脱ぐと、シートの端に正座。

「はい。ちょっと熱いから、気をつけた方がいいわよ」

その言葉と共に霊夢から差し出された湯呑みを、大妖精はそっと受け取る。

「あ、ありがとうございます」

大妖精は受け取ったそれを両手で包むようにして持つと、気付かれないように一つ、ため息をついた。

受け取ったお茶を一口、口に含みながらも、大妖精は心ここにあらず、と言った体であった。
そんな彼女の様子に気付かない三人の会話が、彼女の耳にも届く。

「ん〜、おいしいよこれ!魔理沙が作ったの?」

クッキーを一つ口に放り込み、笑顔のチルノ。

「おう、私の自信作だぜ」

腕をぐっ、と曲げて、力こぶを作るポーズをとる魔理沙。と、ここで霊夢が口を挟んだ。

「ちょっと魔理沙、自分一人で作ったみたいに言わないでよね。私がどれだけ協力したか」

その反論に、魔理沙はニヤニヤ笑いながら返す。

「な〜に言ってんだ、ほとんど私だろ。霊夢は施設提供が主で……まあ、ちょっとは手伝って貰ったかな〜?くらいか」

「まったくもう!……チルノ、こっちのどら焼きも食べて頂戴。これは正真正銘、私の作品よ」

魔理沙に取り付くのを諦め、チルノにどら焼きを勧める霊夢。

「わ、ホント?」

美味しいお菓子のお陰で終始笑顔のチルノは、それを嬉しそうに受け取った。
―――何気ない、仲睦まじげな会話。作ったお菓子を褒めたり、軽口を叩いてみたり。どこにでもありそうな会話。
だが、それを横で聞いていた大妖精の心に浮かぶのは―――


(……いいなぁ)


―――羨望。

(『博麗霊夢』さん。『霧雨魔理沙』さん。それに、『チルノ』ちゃん)

傍に座る三人の『名』を浮かべてみる。

(……みんなみんな、ちゃんと名前がある)

名前がある。そんなの、当然の事と言える。だが―――


(でも、私にはない……名前が、ない)


自分には、その『あって当然』の物―――名前が、無い。
あるのは、『大妖精』という肩書きだけ。幻想郷中を探せば、恐らく自分以外にも『大妖精』にあたる者がいるのだろう。
名前は、唯一無二のもの。その人物だけが持つ、誰にも盗む事の出来ない宝物。
それが、自分には無い。

(みんな、生まれた時に、誰かから名前を貰ってる)

例えば人間なら、父や、母から。式神や使い魔の妖怪なら、主から。

(それぞれ誰から貰ったかなんて分からないけど―――)

人や妖怪の数だけ、名付け親がいる。

(愛情を込めて、この世界に生きる一員として、名前を授かってる)

―――羨ましかった。名前があるという、そんな当たり前の事が、大妖精には羨ましかった。
友人、知り合い、顔見知り―――今の自分には、誰に会っても、何を話しても、その羨望感が付き纏う。だってみんな、名前を持っているのだから。
他人が持つものをひたすらに羨む、そんな今の自分が嫌だった。
けど、頭では分かっていても―――


(その名前がないなんて、まるで、わたしは―――)


そんな考えが、頭にこびり付いて離れない。ずっと同じ事ばかり考えている自分が居る。
そして、今日。チルノに、霊夢に、魔理沙。いつも親しくして貰っている人物。

その彼女達の普通の会話―――

相手の名前が当たり前に飛び出す会話―――

それをすぐ傍で聞いて、触れてしまった大妖精。
頭の中でループしていたその不安が、何倍にもなって一気に押し寄せる。
ずっと思い詰めていた所為もあるのだろう。が、この不安の波に飲み込まれた彼女は、あまりに脆かった。
何だか眩暈がする。息が苦しい。お茶を飲んでいる筈なのに、口の中がしょっぱい。と―――

「……にしても、作りすぎちまったな」

魔理沙の声が再び耳に飛び込んできて、いきなり、大妖精の思考は現実に引き戻される。

「確かにねえ。ちょっとおすそ分けでもするべきかしら」

「それがいいな」

彼女等が作ったお菓子は大きなバスケットを埋め尽くす程大量で、とても少女四人が一回で消化し切れる量では無かった。
霊夢は別に用意していた空っぽのバスケットを取り出す。

「こっからなら、紅魔館が近いわね。ちょっと配ってこよう、っと」

言いながら霊夢は、お菓子をひょいひょいとバスケットに詰めていく。
ある程度の量を詰め終えた霊夢は、いざ紅魔館へ向かうべく、腰を浮かせる。
だが―――

「……あのっ!」

大妖精の声が、それを遮った。

「どしたの?」

いきなりの発言でキョトン顔の霊夢に、大妖精は目を合わせずに早口で答える。

「わ、私が行って来ます。紅魔館なら、湖の上を飛んでいけばすぐですから」

「そう?悪くないかしら」

少し渋る霊夢だったが、大妖精は下を向いたまま捲し立てた。

「い、いえ!悪くなんかないです!私が行きます!」

そう言って、バスケットを受け取ろうとする。

「?……分かったわ、じゃあお願いね」

その慌てぶりが若干腑に落ちないらしく、首を傾げながらではあったが、霊夢は大妖精にバスケットを手渡した。

「大ちゃん、あたいも行こうか?」

最近様子のおかしい彼女を心配してか、チルノが名乗り出た。
しかし、

「う、ううん!大丈夫だよ。ありがとう」

小さな声で言いながら、大妖精は靴を履きなおす。

「気を付けてな〜」

ひらひら手を振る魔理沙に軽く会釈し、大妖精は地を蹴った。

 


―――どうして、お使いを買って出たのかって?


―――霊夢や魔理沙、チルノに苦労をかけないため?


―――もちろん、それもある。
だが、本当の理由は―――

 

大妖精は湖の上を滑空しながら、手の甲で目頭を拭う。

 

 

―――『どうして泣いてるの?』って訊かれたら、答えられないから。

 

 

―――湖のほとりの森の中に、それはある。
遠くからでも目立つ、紅い洋館。木々の緑との対比が、一層その存在を際立てる。
森を歩く大妖精の視線の先に、館の門が見えてくる。
涙は、何とか止まった。

(やっと着いた……って、あれ?)

門の前まで辿り着いた大妖精は、思わず足を止めた。
いつもなら自分に限らず、誰かが門の前まで来ると、まるでセンサーでも設置されてるが如く挨拶が聞こえて来る筈なのだが。
その理由はすぐに分かった。
挨拶の主たる門番―――紅美鈴の姿が無い。

(美鈴さん、いないや。どうしたんだろう)

いつもなら彼女に用件を話し、それを伝え、館主の許可が下りれば中に入れる。
美鈴がいなくては、用件を伝える事も出来ない。と―――

「や〜、やっと終わったぁ。流石にちょっと疲れたなぁっと……あっ」

不意に門が開き、中から美鈴の姿が現れた。
ひとりごちながら門を開けた美鈴は、大妖精の姿に気付き、一礼。

「こんにちは、大妖精さん。今日はどうされました?」

「あ、えっと、お菓子のお裾分けに……」

そう言って大妖精は、手に持ったバスケットを示す。
それを聞いた美鈴は笑顔のまま、

「わっかりました!ちょっと待ってて下さいね、すぐ戻りますから」

そう言い残して、再び中へ戻っていく。
残された大妖精は、適当に紅魔館の外観を眺めつつ、美鈴の帰りを待つ。
それから、手にしたバスケットの中身を確認してみる。
―――何かしていなければ、またあの不安に襲われそうで―――

「お待たせしました!」

いきなり声を掛けられ、大妖精はまたもビクリとして肩を竦ませる。いつの間にか、美鈴が戻ってきていた。

「ささ、中へどうぞ!」

そう言って門を開ける美鈴。この場で渡して終わりだと思っていた大妖精は思わず尋ねた。

「え、美鈴さんに渡すのではなく?」

「あ、いえ」

美鈴は再び笑顔を見せる。

「直接お礼を言いたいと、お嬢様が仰ってますので!」

拒む理由も特に無いし、そうまで言われて断るのも何だか悪い。
そう思った大妖精は、素直に紅魔館の門を潜った。

紅魔館の長い廊下を、美鈴の先導で大妖精は歩く。
自分を囲む沢山のドアに、大妖精は思わず目移りしてしまう。どれがどの部屋なのか、住人は全て把握しているのだろうか、などと考えた。
と、その時。大妖精達の前方、右斜め前のドアがガチャリと開いた。
中から現れたのは、紅魔館内大図書館の司書見習い、小悪魔。

「あっ、大ちゃん!」

大妖精の姿を見つけた小悪魔は、嬉しそうに駆け寄った。
が、まずは隣の美鈴に話しかける。

「あ、美鈴さん。先程はお手伝いどうも有難う御座いました!パチュリー様も凄く助かったと、感謝しきりでしたよ?」

「いえいえ、また手伝える事があれば、呼んで下さいね」

笑顔で答える美鈴にぺこりと一礼し、今度は大妖精を向く。

「今日も来てくれたの?嬉しいなぁ。そうそう、さっき面白い本見つけたんだけど、良かったら見る?」

ニコニコと笑う小悪魔に、大妖精は申し訳無さそうに告げる。

「ごめんねこぁちゃん。今日は図書館じゃなくて、レミリアさんに用事が……」

それを聞いた小悪魔は残念そうな表情だったが、すぐに笑顔を取り戻す。

「う〜ん、じゃあしょうがないや。次来てくれた時に見せてあげるね」

「うん、ありがとう」

「じゃ、またね!」

小悪魔は手を振ると、大妖精達の後方の別のドアを開け、室内に消えていった。
再び先を歩き始めた美鈴に、大妖精は訊いてみた。

「あの、こぁちゃんが言ってた『手伝う』っていうのは一体?」

「ああ、それですか」

大妖精を振り返りながら、美鈴が答える。

「パチュリー様に頼まれて、図書館の蔵書の整理をお手伝いしたんですよ。今日はかなり量が多かったので、小悪魔さんとお二人だけじゃ大変だったみたいですね」

先程『やっと終わった』と言っていたのはこれの事だったようだ。なるほど、と大妖精が頷くと、見計らったかのようなタイミングで再び前方のドアが開く。
現れたのは、パチュリー・ノーレッジ。噂をすればなんとやら、である。

「あら、美鈴」

二人の姿に気付いたパチュリー。先刻の小悪魔と同じく、まずは美鈴に話しかける。

「さっきはありがとうね、お陰で凄く助かったわ。今度何かお礼させてね」

「いえいえ、そんな。私は力だけが取り柄ですから」

謙遜する美鈴に笑ってみせてから、パチュリーは大妖精を向く。

「今日も図書館?ウチの小悪魔も喜ぶわね。せっかく来てくれたのにあの子、どこ行ったのかしら」

「あ、いえ……」

再び否定しようとした大妖精だったが、先に美鈴が答えた。

「今日は図書館じゃなくて、お菓子を持って来て下さったんですよ。霊夢さん達からのお裾分けだとか」

「あら、そうだったの」

パチュリーは笑顔で、大妖精に頭を下げる。

「ありがとう。いつしかの会議の時と言い、あなたにはよくお世話になるわね」

「い、いえ!私こそ、いつも図書館を利用させて頂いてますし……」

ぶんぶんと手を振る大妖精の様子にパチュリーはまた笑う。
それから立ち去ろうとして、もう一度声を掛けた。

「そうそう、小悪魔といつも遊んでくれてありがとう。良かったら、これからも仲良くしてあげて」

「は、はい!」

返事を聞いてから、彼女は大妖精達がやって来た方向へ歩き去った。

(こんなに広いお屋敷なのに、こぁちゃんにもパチュリーさんにも会えた。運がいいのかな)

度重なる住人との遭遇に少し驚きながらも、大妖精は美鈴について行く。
暫く歩いたところで、美鈴が歩を止めた。
目の前には、大きなドア。所々に装飾が施されており、今までの部屋のドアとは明らかに格調が違う。
間違い無く、主の部屋である事が伺えた。

コンコン。

美鈴が部屋のドアを躊躇いも無くノック。
即座に、

「いいわよ、入りなさい」

中から聞こえて来た声。その声は少女の幼さを残しながらも、凛とした力強さを感じさせる。カリスマ、と言うのだろうか。
どうやら中の者は、すぐに誰が来たのかが分かったらしい。

「失礼します。大妖精さんをお連れしました」

言ってから、美鈴はドアを開けた。一礼してから脇に下がり、大妖精に入るように促す。

「し、失礼します……」

緊張で声を震わせながら、大妖精は主―――レミリア・スカーレットの部屋へ足を踏み入れた。

「わざわざお菓子を持って来てくれたのね、ありがとう」

言いながら、レミリアは大妖精に笑いかける。

「い、いえ!作ったの、私じゃありませんし、持って来ただけですから、そんな……」

答えながらも、自然と背筋が伸びてしまう。大妖精は緊張のあまり落とさないようにと、バスケットをしっかり持ち直す。
部屋の中央やや奥に置かれた、見ただけで高級品と分かる豪華な椅子に、レミリアは座っていた。脇に置かれた小型のテーブルにはポットとティーカップ。
そんな彼女の横には、メイド長の十六夜咲夜が控えている。
昼間という事もあり、窓にはしっかりカーテンが引かれている。だが、天井のシャンデリアからの明かりが部屋全体を明るく照らしているので暗くは無い。

「むしろ、作った本人ではないのに持ってきてくれた事にも感謝してるのよ。多分、あなたが持って行くと言い出したんでしょうけど」

「えっ、どうしてそれを……」

本当に驚いた様子の大妖精に、レミリアはまた笑ってみせる。何もかもお見通しだ、といった体の余裕の笑顔。
そんな彼女は、大妖精がいつまでも重そうに抱えているバスケットを見て、一言。

「―――咲夜」

「はい」

名を呼ばれた咲夜は、用件を言われてもいないのに頷き、大妖精の傍まで行き、丁寧に両手を差し出す。
一瞬戸惑った大妖精だったが、すぐにバスケットを差し出した。
受け取るその時、咲夜が言った。

「ありがとう」

言ってから、咲夜はニッコリと笑顔を見せる。
いつもクールに業務をこなす―――そんなイメージだった咲夜の突然の笑顔に、大妖精は若干の驚きを覚えた。
咲夜の行動は、レミリアの意思通りだったらしい。バスケットを持ったまま再び元の位置に戻る咲夜に満足そうに頷いてから、レミリアは今度は美鈴に話しかける。

「そういえば、あなたも何か用事があったらしいわね。そっちはもう大丈夫なの?」

「あ、パチュリー様のですか?もう片付きました、大丈夫ですよ」

「そう、なら良かったけど。パチェったら、非力なのにあんなに沢山の本を溜め込むんだから。自分の腕力で片付く量の内にこまめに整理しろって言ってるのに」

「まあまあ。腕力はともかくとして、パチュリー様は頭の方に物凄い力をお持ちなんですから、私とは大違いですよ」

「そうは言うけどねぇ……」

そんな感じで会話を続けるレミリアと美鈴。
手持ち無沙汰になった大妖精。部屋に入ってからの緊張も若干和らいだ彼女だったが、それがいけなかった。
二人の会話を聞く大妖精の脳裏に、再びあの暗い思考と不安が蘇る。

(ああ……レミリアさんに咲夜さん、パチュリーさんに美鈴さん。やっぱりみんな、名前を持っている……)

来客の立場なのにこんな所で落ち込んではいけないと、頭では分かっていても止められない。
親しげに会話する二人のお陰で、大妖精の名前への羨望、それが無い事への不安―――様々な感情がないまぜになった行き場の無い思いが、加速する。
じわじわと心を支配していく絶望的な不安。大妖精は自分で自分を追い込んでいた。

(こぁちゃんにも名前はないけど、それを気にしてるようなとこは見た事ない)

脳裏に浮かぶ、小悪魔の笑顔。確かに彼女にも名前は無い。
だが、大妖精が会う度にいつも明るく笑う彼女は、名前が無い事を気にした様子は微塵も無い。

(私はそんなに、強くなれないよ……)

同じ名前を持たない立場の者がいる。彼女はそれを全く気にしない程の強さを持っている、だが自分はそうじゃない。
簡単に笑い飛ばすには、この悩みはあまりに自分の中で大きくなり過ぎた。
悩んでいるのが自分だけだと分かると、途端に不安は爆発的な勢いで広がっていく。

―――なぜ?

―――どうして?

―――どうして私だけが、こんなに苦しい思いをしているの?


名前が欲しい。
ワタシダケノ、ナマエガホシイ。


拳を握り締め、何時の間にか大妖精は下を向いていた。肩が震える。泣きそうだったが、こんな所で泣く訳にはいかない。唇を噛みしめる。
最後の理性で、何とか涙を押し留めていた。
美鈴との会話が一段落したレミリアの目に、ふと、大妖精の顔が映った。
少しの間、レミリアは大妖精の顔を見ていたが、不意に咲夜に告げた。

「咲夜、そのお菓子は後でお茶と一緒に持って来て頂戴。先に、パチェ達に配ってきてあげて」

「かしこまりました、失礼致します」

咲夜はレミリアと大妖精に一礼すると、バスケットを持ったまま部屋を出て行った。
咲夜を見送ると、レミリアは美鈴に声を掛けた。

「美鈴、あなたも仕事に戻りなさい。ご苦労様。後で咲夜にお菓子持って行かせるわ」

「有難う御座います、お嬢様。では、失礼致します」

やはりレミリアに一礼し、美鈴は部屋を出て行こうとする。だが、思い出したように立ち止まると、大妖精の背中に声を掛けた。

「また、来て下さいねっ」

その一言で、大妖精は我に返った。慌てて見ると、美鈴は最後に笑顔を向けてから、部屋を出て行く所だった。
レミリアと二人きりになると、途端に先程の緊張がむくむくと湧き上がってくる。

「じゃ、じゃあ、私もこれで……」

ぺこりとレミリアに頭を下げ、大妖精は退室しようとした。
だが―――

「ちょっと待って。あなたにはまだ、話があるわ」

レミリアの言葉に大妖精は驚き、思わず彼女の顔をまじまじと見てしまう。
レミリアはただ、不敵に笑っているだけだった。

「お、お話、ですか?」

突然の言葉に、大妖精は驚きを隠せない。よもやレミリアほどの妖怪が、自分のような一妖精に話があるなど、考えもしなかった。
何か失礼な態度でも取ってしまったかと、大妖精は焦る。
あらゆる面で格上だと思っている相手と二人きり。緊張と焦りで、大妖精の頬を冷や汗が伝った。
だが、レミリアはそんな彼女の様子を見て、また笑顔を見せた。
先程までの不敵な笑みとはまた違う、相手を安心させようとする穏やかな笑顔。

「そんなに緊張しなくてもいいわ。別に怒ってるわけでも、無茶な要求するわけでもないんだから」

「え、え?」

思わず驚きの声を上げてしまう大妖精。やはりお見通しだった。

「じゃ、じゃあ一体……」

大妖精が尋ねる。彼女には、レミリアの真意が全く見えなかった。
するとレミリアは、いきなりおどけた口調で言った。

「レミリア・スカーレットのお悩み相談室〜、ってとこかしら?」

「……へ?」

言われた大妖精は、ますます訳が分からない。
だが続く彼女の言葉に、息を呑んだ。

「あなた、今何か悩みを抱えているでしょ?それも、かなり大きな」

「っ!?」

「お菓子を持ってきてくれたお礼代わりよ。何でも話して御覧なさい」

図星を突かれ、大妖精は言葉を失った。完全に見透かされていた。これが、五百年の時を生きた妖怪の実力なのだろうか。
しかし、今の大妖精は、レミリアの凄さに感心するより、己の悩みを見透かされた事に対する不安の方が勝っていた。
話を聞いてくれるとは言うが、おいそれと簡単に話してしまえる事でもない。チルノにだって話していないのだ。

「あ、う……その……」

言葉に詰まる大妖精の様子を見てレミリアは、ぽつりと呟いた。

 

「……名前」

 

刹那、大妖精の全身を衝撃が駆け抜けた。

「な、な……っ!?」

「図星のようね。私が誰かの名前を呼ぶたびに、あなたビクビク震えてたから。こう見えて、私は五百年生きてるのよ?あんまり舐めないで欲しいわね」

そう言って笑うレミリアを見て、大妖精は悟った。

―――この人の前で、隠し事をするのは不可能だ。

観念したように、大妖精は呟く。

「……聞いて、下さるんですか?こんな、私なんかの悩み……」

「さっきも言ったわよ。いいから話して御覧なさい。……ちゃんと、聞いてあげるから」

そう言うレミリアの眼差しは、真剣だ。
大妖精は恥ずかしいと思うと同時に、どこか安堵のようなものを感じていた。
親友にすら話せなかった悩み。この人にだったら、聞いて貰える。
大妖精の口が、ゆっくり開いてゆく。

「―――レミリアさんの仰る通りなんです。私には、名前がありません……それで悩んでたんです。ずっと」

ぽつり、ぽつりと話し始めた大妖精の眼を見つめ、レミリアは話を聞く。

「前は、そんな事気にした事もありませんでした。けど先日、いつものようにここの図書室に遊びに来たら……見つけてしまったんです」

「何を?」

レミリアの質問。

「……本、です。名前に関する。その本には、人の名前に込められた様々な意味について書かれていました」

話を続ける大妖精の視線が、宙を彷徨う。

「私はそれを借りて、家で更に読んでみました。人の名前には、それをつけた人からの色々な願いやメッセージが込められていると知って、素直に感心しました」

余計な相槌を挟まず、レミリアは無言だ。

「……ですが、それと同時に考えてしまったんです。じゃあ、その名前を持たない自分は何なんだろう、って……」

爪が食い込むほど、大妖精は固く拳を握り締めていた。

「私の周りの人は、みんな名前があります。それはつまり、何かを願われて、望まれて、この世に生を受けたということ……」

握り締めた手が、震えを帯びる。

「……その名前を持たない私は、まるで……」

息が苦しい。視界が滲んだ。

「―――存在を、否定されているみたいだって……お、思ってしまって……」

―――ぽたり。

震える声で言い切る大妖精の手に、何かが落ちる。熱い。
涙の雫。大妖精は今の今まで、頬を伝って落ちる涙に気付かなかった。

「あっ……!?そ、その……これは……」

滲んだ視界の向こうの、レミリアの表情は見えない。
人前で泣くなんて、と思っても、溢れ出した感情はもう止まらない。
我慢した分だけ、その感情は涙へ形を変えてこぼれ落ちた。

「ち、違うんです……わ、わたし、泣いてなんか……ひっく、違うんです……」

下を向き、涙を拭う。だが、いくら拭おうとも涙は溢れ続ける。どんなに否定しようとも。
下を向いたまま、必死に涙を止めようとする大妖精は、レミリアがすぐ目の前まで来ている事に気付かない。


―――だから、そのレミリアにいきなり抱きしめられても、すぐには何が起こったか分からなかった。

「あっ……」

いきなり全身を温もりに包まれて、思わず声を上げてしまう大妖精。
顔を上げようとしたら、誰かの胸に顔を埋めてしまっている事に気付く。
背中に回された手が、やけに温かい。

「レ、レミリアさ……な、なにを……」

答える代わりに、レミリアは大妖精をさらに強く抱きしめる。
心臓の鼓動が、やたら大きく聞こえた。
無音の部屋に響くのは、たった今まで泣いていた大妖精の荒い息遣いだけ。

「―――落ち着いた?」

耳元で囁くレミリアの声は、とても優しかった。
今の大妖精には、その優しさがとても嬉しくて、温かくて。
再び溢れそうになる涙を何とか押し止め、大妖精は答えた。

「……は、はい」

それを聞いて、レミリアはそっと体を離す。
大妖精にとっては寂しかったが、我が侭を言う訳にもいかない。
そんな彼女の肩に両手を添えたまま、レミリアは話し始めた。

「……確かにあなたには、名前がないわ」

目元に微かに残った涙を拭ってから、大妖精も無言でレミリアの眼を見つめ返す。
だが、次に発せられたのは意外な言葉だった。

「―――でも、それが何だと言うのかしら?」

「えっ……」

驚きの声を上げてしまう大妖精。
まるで彼女の悩みなど悩みの内に入らないとでも言うかのようなレミリアの言葉。
目を丸くする大妖精に、レミリアは笑ってみせる。

「怒った?だとしたら謝るわ」

「い、いえ……そういう訳では」

大妖精は慌てて否定する。ただ単純に、その言葉の真意が見えなかっただけなのだから。

「あなたはさっき、名前には付けられた人に対する願いが込められているって言ったわね」

無言で頷く大妖精に、レミリアは話を続ける。

「それはよく分かるし、とても素晴らしい事だと思う。……だけど、その名前が無いからって、存在価値を否定されているのかと言うのなら―――私はそうは思わない。
 名前を持たないあなたが、何も望まれず、何の意味も持たず、価値も無く、ただ生きてきただけなのか?

 ―――それは絶対に、無いわ。断言できる」

ゆっくりと、言い聞かせるように語るレミリア。大妖精は、何も言わない。

「名前はあくまで、個人を識別する物よ。存在する名前がそれ以上の意味を持つ事はあっても、名前を持たない者が否定される事は無い。
 名前のあるなしなんて関係無い。あなたは確かに私達と共に存在し、ここにいる」

レミリアの言葉を聞きながらも、若干の悩みの表情を見せ、今一つ自分自身を説得できないでいる様子の大妖精。
一度自分自身の存在を自身で否定してしまった。その事実は根強く、簡単に消せるものではない。
それを見たレミリアは、すっ、と人差し指を立てる。

「じゃあ、例え話をしてみるわ。もし、今私がここで、レミリア・スカーレットの名前を失ったとする」

突飛な例え話に大妖精は驚きの表情を浮かべ、聞き返す。

「名前を、ですか?」

「そう。私がレミリアではない、名も無き吸血鬼になってしまったとして、よ」

突然の例え話に含まれるレミリアの真意は分からないが、大妖精は頷いた。
レミリアは話を続ける。

「私が名前を失ったとして―――そうね、咲夜は、私の事を否定するかしら?私の事を呼ばなくなるかしら?」

「え……」

大妖精は、突然名前の出てきた咲夜の顔を思い浮かべる。
レミリアをお嬢様と慕い、忠実に働くメイド長。そこには確かな信頼関係がある。
大妖精は口を開いた。

「……いいえ。咲夜さんは絶対に……レミリアさんを否定なんかしません。例え名前を失ったとしても、きっとそれまで通り『お嬢様』と呼んで、お仕えすると……」

はっ、とした表情を見せる大妖精。

「……そう。私もそう思うわ。咲夜だけじゃない。フランでも、パチェでも、美鈴でも、小悪魔でも……私が名前を失ったくらいで、私を否定なんかしない。逆もまた然りよ」

例え名前を失ったとしても、築かれた信頼関係が崩れる事は無い。
レミリアの名を失っても、きっとパチュリーはそれまで通り彼女の事を『レミィ』と呼ぶのだろう。
名前の有無など、関係無いのだ。

「でも……」

―――しかし。大妖精の表情は、まだ晴れなかった。

「確かにレミリアさんは、沢山の方から信頼されてます。名前が無くたって、きっと多くの人がレミリアさんを信じるでしょう。
 でも、私は……ちっぽけな一人の妖精に過ぎない私を、見つめて、信じてくれる人は……愛してくれる人は、いるんでしょうか……」

未だ拭いきれない不安が、大妖精の心に燻っていた。
名無しの一妖精に過ぎない自分を、一体どれ程の人が信じてくれるのだろうか。
どれ程の人が、その存在価値を認めてくれるのだろうか―――。

「……はぁ」

その思考は、レミリアのため息によって断ち切られた。

「あなたって勘はいいけど、自分の事となるとてんでダメなのね……」

「えっ……」

ため息と共に発せられたレミリアの言葉に、大妖精は首を傾げる。
レミリアは再び、大妖精の眼を真剣な眼差しで見つめる。

「……あなたにも、いるじゃない。唯一無二の親友が。いつも良くしてくれる人達が」

「!!!」

(―――チルノちゃん……!)

何故、こんな簡単な事が分からなかったのだろう。
誰よりも傍で、自分の事を見つめている者がいたではないか。

(霊夢さん、魔理沙さん……)

まさに今日、自分を笑顔で誘ってくれた人がいたではないか。

「彼女らは、あなたの事を否定していると言うの?」

 

『何か嫌な事でもあったの?あたいでよければ、相談に乗るけど……』


『はい。ちょっと熱いから、気をつけた方がいいわよ』


『大ちゃん、どした?具合でも悪いのか?』

 

脳裏にフラッシュバックする、優しい言葉達。
自分の存在を否定する者が、どうしてこんなに優しい言葉をかけられようか。

「それだけじゃないわ……」

レミリアの言葉で我に返る大妖精。

「あなた今日、この部屋に来る前に誰に会った?」

「え……」

大妖精は慌てて、思考を遡らせる。
記憶の糸をたぐるまでも無く、大妖精は答えた。

「えっと、美鈴さんに、こぁちゃんに、パチュリーさん……」

「ええ、そうね。美鈴はともかく、パチェと小悪魔にも会った。その時、何か思わなかった?」

確かに、考えた事がある。
自分から見て、とても広い屋敷。その中で偶然会えた―――。

「……えと。こんなに広いお屋敷なのに、偶然お二人にも会えたから、運がいいなって……」

「違うわ」

「え?」

大妖精の言葉を否定するレミリア。

「多少空間をいじって拡張してる部分もあるけど、贔屓目に見てもこの紅魔館は広いわ。
 会う事を目的としてなかった人物に、それも二人連続で偶然会うなんて、滅多に無いのよ」

その言葉が、大妖精の心に引っ掛かった。

「私が言いたいのは、二人があなたに会ったのは偶然じゃない、ってコト」

どくん、と大妖精の心臓が跳ねる。

「えっ……そ、それってつまり……」

しどろもどろになりながら尋ねる大妖精に、レミリアは笑顔を見せた。

 

「―――そう。パチェも、小悪魔も……あなたに会いに行ったのよ」

 

「!!!!」

その刹那―――
大妖精の脳裏に、今日の光景が次々と蘇った。


『今日も来てくれたの?嬉しいなぁ』


明るい笑顔を見せてくれた小悪魔。


『あなたにはよくお世話になるわね』


そう言って、頭を下げてくれたパチュリー。


『ありがとう』


クールだと思ってた、咲夜の満面の笑み。


『また、来て下さいねっ』


いつも笑顔で挨拶し、一緒に遊んでくれた事もあった美鈴。

そして―――

「みんな、あなたの事が好きなのよ。咲夜もパチェも、美鈴も小悪魔も―――そして、私もね」

堪えきれず、涙をこぼした大妖精を、何も言わずに抱きしめてくれたレミリア。
大妖精の心の闇を打ち払おうと、話を全部聞いてくれた。

「私があなたをここに呼んだのは、あなたの顔が見たかったから。それだけの為にわざわざ呼んだのよ。私は我が侭だから」

そう言って、いたずらっ子のようにレミリアは笑った。

「さて……これだけ言っても、あなたはまだ信じられない?まだ、『名前の無い自分に存在価値は無い』と思えるかしら?」

「あ……あぁ……」

大妖精は何か言おうとしたが、出来なかった。
言葉の代わりに、一滴の涙がこぼれて落ちた。
頬を伝う涙を拭おうともしない、そんな彼女に、レミリアは優しく語り掛ける。

「―――実はね。ウチの小悪魔も、以前あなたと同じ悩みを持っていたわ」

それを聞いた大妖精は、驚いて顔を上げた。
彼女は強いから、名前が無いなんて事で悩んだりしない―――そう思ってた。

「その時も、同じ話をしたの。まあ、小悪魔の場合はいつもパチェが傍にいたから、割とすぐに解ってくれたけど」

小悪魔も、自分と同じ悩みを抱えていたのだ。
大妖精は、脳裏に小悪魔の屈託の無い笑顔を思い浮かべる。
彼女があんなに明るく振舞えるのは、『自分を信じてくれる人が居る』と解っているからなのかも知れない、と思った。

―――だが、それだけでは無かった。

「小悪魔は大分あなたに懐いてるみたいだし、あなたの前ではいつも笑ってるわね。
 もしかしたら、同じ名無しであり、それでいて大好きなあなたに同じ事で悩んで欲しくないから、ああして笑っているんじゃないかしら。
 ―――どんなに少なくとも、自分はあなたの事を信じてる、ってね」

(―――こぁちゃん……!)

そこまで聞いた大妖精は、もう限界だった。涙が止まらない。
しかし、さっき流した涙とは明確に違った。嬉しくて泣いているのだ。

―――こんなにも沢山、自分を信じてくれる人がいる。

―――こんなにも沢山、名前も持たない自分を愛してくれる人がいたのだ。

私は、存在価値の無いちっぽけな妖精なんかじゃなかった。
嬉しくてたまらない。私は、なんて幸せ者なんだろう―――。

 

「ぽろり、ぽろりと泣き虫やさん―――ってね。ほら、いつまで泣いてるのかしら?」

不意にレミリアから声を掛けられ、はっと顔を上げる大妖精。その頬は、涙で光ったままだ。
慌てて頬の涙を袖で拭い、彼女はレミリアに向き直る。

「いつまでも泣いてちゃ、可愛い顔が台無しよ……なんて」

言いながらレミリアは、大妖精の目元の涙を指先で払う。

「あなたはもう、名前が無い事で悩んだりなんかしないわ。もう大丈夫。『名前が無い事も個性のうち』くらい言っていいのよ?胸を張りなさい」

レミリアの言葉にクスッと笑ってから、言われた通りに背筋を伸ばし、胸を張る大妖精。
レミリアは『それでいい』とでも言うように頷いてから、笑った。

「―――また、いつでも遊びに来なさい。お悩み相談室も、常時受付中よ」

言いながらレミリアは、大妖精に背を向ける。
大妖精は胸いっぱいに息を吸い込むと、その背中に向かって元気に返事を返した。

 

「―――はいっ!!!」

 

紅魔館の門を飛び出した大妖精は、美鈴に一礼すると、勢いよく地を蹴った。
木々の間を抜け、やがて湖面へ躍り出る。
湖の上を一直線に飛んでいく大妖精の表情は、まるでこの青空のように晴れやかだった。
やがて対岸に見えてくる、きっと自分を待っているに違いない三人の影。

「ただいま帰りました〜!!」

大妖精は飛びながら、笑顔で手を振る。
気付いた三人も、手を振り返した。
一足先にとチルノが飛び、大妖精と並ぶ。

「おかえり大ちゃん!遅かったから心配したよ〜」

「えへへ、ごめんね。何だかお腹すいちゃったな……お菓子、まだ残ってる?」

「うん、大丈夫!ちゃんと大ちゃんの分、残しといたから!」

笑顔で会話を交わしながら、二人は着地する。すぐに霊夢と魔理沙も寄って来た。
とりあえず、と再びシートに腰を下ろした四人。

「もう、心配したわよ。私がお使いに出した手前、何かあったらって心配で……」

「ごめんなさい、霊夢さん……ちょっとレミリアさんとお話してまして」

「え、あの吸血鬼と?珍しい取り合わせね……」

ぺこりと頭を下げる大妖精と、驚いた様子の霊夢。

「ま、無事で何よりだ!大ちゃんの分のお菓子ちゃんと残してあるから、食った食った!」

魔理沙はそう言いながら、バスケットを大妖精に押し付ける。
大妖精は「わわっ」と驚きながらも何とかそれを受け止めた。

(……あれ?)

魔理沙から次々とお菓子を渡される大妖精の様子を見ていたチルノは、ある事に気付いた。

(大ちゃん、何だか元気になったみたい……元に戻った!)

チルノには、大妖精が再び元気を取り戻した事がすぐに解った。
紅魔館で、彼女に何があったのかはわからない。だが、大妖精が悩みから開放され、また以前のように明るくなった事がチルノには自分の事のように嬉しかった。
嬉しさのあまり、チルノは思わず大妖精に抱きつく。

「大ちゃ〜ん!」

「わっ、わっ!どうしたの、チルノちゃん」

突然の事に顔を赤らめながら尋ねる大妖精だったが、チルノは笑顔で、

「なんでもな〜い!」

と答える。そして、バスケットからクッキーを一つ摘むと、大妖精の顔に持っていく。

「はい、あ〜ん」

大妖精は少し恥ずかしかったが、成すがままにそのクッキーを口で受け止める。

「ど〜だ?」

期待の眼差しで尋ねる魔理沙に、大妖精は満面の笑顔を返した。

「―――すっごく美味しいです!」

それを聞いた魔理沙も、食べさせたチルノも笑顔になった。
その横で、霊夢がお茶を入れた湯呑みを差し出しながら、ぽつりと一言。

「―――どら焼きもよろしくね」

 


―――こんにちは。
私は、大妖精です。
みんなからは、よく『大ちゃん』って呼ばれます。

 

―――私には、名前がありません。

 


けど―――それが、何だというのでしょう?

 

名前なんてなくたって、私は私です。
今なら、胸を張って言えます。

 

 


―――『私は、名無しの大妖精です!!』

 

 


 

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