―――ここは、どこ?

 

 

気が付いたら、見知らぬ場所に立っていた。
足元にはどうやら背の低い植物が一面に生い茂っているらしく、どうにも歩き辛そうだ。
見渡してみる。明け方のような、妙な明るさ。なのに、遠くが見えない。白いもやがかかっているようでもある。

 

―――『……ま……』

 

突然、遠くから声が聞こえた。断片的な、少女の声。

 

―――『……さま……』

 

また聞こえた。さっきより近い。

(私を呼ぶのは、だれ?)

ぼやけた景色に向かって声を張ろうとした。出なかった。喉の奥に何かが引っかかったような、妙な感触。
何度か声を出そうとした。やはり出ない。声を出す事を、体が拒んでいるかのようだ。
空しくパクパクと動く口をつぐんだ所で、また声が聞こえた。

 

―――『……ねえ、さま……』

 

―――『……おねえさま……』

 

段々鮮明になってゆく、姿の見えぬ少女の声。突然、胸が苦しくなる。
懐かしいような、触れてはいけないような―――

(まさか……)

途端に荒くなる呼吸。今すぐ逃げ出したいような衝動。
だが、足が動かない。何のことは無い、自分はただ突っ立ているだけ。なのに、足が動かない。まるで凍り付いてしまったかのように。
そして、その耳に確かな声が届く。

 

―――『リリカ、おねえさま……』

 

(……!?)

その声と同時に、見えた。人影だ。自分と対して変わらない背丈。服装のシルエットから、少女の影である事が分かる。
明るい筈なのに何故か見えないその少女の姿に向かって、必死に手を伸ばそうとする。動かない。
歩いてみようとする。動かない。
せめて一声だけでもいい、口を開く。何も出てこない。

(あなたは、いったい……)

口から出なかった言葉を頭の中に浮かべている間に、その少女の影は、すぅっと消えてしまった。

 

(わたしの―――)

 


「―――!!」

途端に色づく景色は、見慣れた己の部屋。
ベッドから半身を起こしたリリカ・プリズムリバーは、まるで全力疾走した後のように荒く息をつく。
首筋から伝った汗が、そのままパジャマの胸元へ落ちていく。
それを手で押さえ込むようにして拭き取り、リリカは辺りを見渡す。窓の外からは、うっすら差し込む朝日。

「変な夢……」

思わず口に出して呟き、リリカはベッドから飛び降りた。
そのまま窓に歩み寄り、見た夢の内容を拭い去るかのように思いっきり開け放つ。
途端に吹き込むそよ風が、汗ばんだその身体に心地よい。
それから軽く身を乗り出し、窓の下を覗き込んでみる。目の前には屋敷の外壁が立っているが、その手前の地面には多くの花が咲いている。
季節毎に違った花がひっそり咲くので、リリカはこの窓の下に見える小さな花畑が好きだった。
だが、彼女は少し疑問にも感じていた。

(なんで私の部屋の窓の下だけ、こんなに花が咲いてるんだろう)

窓からもう少し身を乗り出し、隣の部屋の窓の下を覗き込んでみるが、雑草が多少生えている程度でここまで花は咲いていない。
このプリズムリバー邸において、玄関前の花壇スペースを除けば、こんなに花が咲いているのはこの部屋の窓の下だけだ。
う〜ん、と暫く考えてから、リリカは首を横に振った。

(私は音楽家なんだし、植物の事は分からないや)

すっぱり割り切るその性格を、リリカは自分でも長所だと思っている。
外を眺めて気持ちは落ち着いたが、今度は夢の事がすぐに頭をもたげてくる。

(……何なんだろう、あの夢……)

夢の中の光景が、少しだけ頭を過ぎった。見た事の無い景色、明るいのにはっきりしない視界、動かない体―――そして、少女の影。
少女は、確かに自分の名前を呼んだ。

(あの子は―――)

リリカが思考を巡らせていたその時、ドンドンドン!と強いノック音が部屋に響いた。

「リリカ、起きてる〜?」

その常時明るさ満点な声で、瞬時に頭から夢の事が消し飛んでしまった。良いのか、悪いのか。

「半分起こされた、と言ってもいいかもね」

皮肉っぽくリリカが返してみると、すぐに自室のドアが開いた。
入ってきたのは次女、メルラン・プリズムリバー。こちらもまだパジャマ姿だが、その表情に眠気は感じられない。

「おっはよ、リリカちゃん」

「おはよ、メル姉さん」

屈託無く笑ってみせるメルランに、リリカは手をヒラヒラ振って答えた。いつも明るい姉の元気の秘訣を、今度教えてもらおうか。
自分よりはそのさらに上の姉に教えてやるべきだな、と脳内で結論を出し、リリカはメルランに問いかける。

「どしたの?朝っぱらからなんか用事?」

「ん〜ん。起こしにきただけ」

はぁ、とため息。もう少し寝かせてくれても良いのではないか、とリリカは思ったが、メルランには既に見抜かれていた模様。

「早起きは三文の得、ってね。円に換算したらどれくらい得するのか分からないからちょっとアレだけど、とにかく早起きはいい事なのよ。健康第一!」

「はいはい」

騒霊が健康に気を使う必要があるのか、と問おうとしたが、その前にメルランは『朝ごはん作ってくるね〜』と残して部屋を出て行ってしまう。
残された彼女はひょいと肩を竦め、着替えるべく部屋の隅に置かれた箪笥へ向かった。いつまでも汗だらけのパジャマを着ているのは気持ちの良いものでは無い。

「リリカ、起きてる〜?」

一日に二度全く同じ言葉を同じ相手からかけられるというのは、結構珍しい経験かもしれない。それが、一回目から一時間も経っていないのであれば尚更だ。

「……へ?」

朝食の席にて、ぼけーっと一点を見つめて考え事モードだったリリカは、呆けた表情のまま声の主たるメルランを見やる。

「ほら、まだ眠い?次にぼーっとしてたら、そのカワイイお顔にバター塗っちゃうぞ?」

「もう、食べ物で遊ぶんじゃないの」

イタズラっ子のような笑みと共にバターナイフをリリカへ向けるメルランを、横に座った長女、ルナサ・プリズムリバーが制した。
冗談だってばさ、と呟いてから、メルランはそのバターナイフを本来向けるべき対象―――手元の皿に乗った焼きたてのトーストへ押し付ける。

「メルラン。そのバターナイフ、終わったら私に貸して」

ルナサが言うと、メルランは笑って頷いた。

「ん、了解〜。顔に塗るなら手伝うよ?」

「違うわよ。あなたが顔に塗るなら考えてもいいけど」

「もう、姉さんは冗談が通じないんだから」

真面目なルナサと明るいメルランの会話は傍から聞いていても面白い。
だが、今のリリカの頭にはそれを聞いて笑っている程の余裕が無かった。勿論、夢の影響だ。

(何で、あんな夢を……)

それなりの年月をこの屋敷で過ごした彼女は、これまで色々な夢を見てきた。その数ある夢の一つと考えればいいのかもしれない。
時には変な夢だって見る、と結論付けて終わらせるのは簡単だ。だが、リリカにはそれが出来なかった。
それほどの印象強い”何か”が、今朝の夢にはあった。

(あの女の子は―――)

 

――― ぺと。

 

突如、頬に伝わる柔らかい感触。はっ、とリリカが顔を上げると、正面にニヤリと笑うメルラン。

「警告はしたからね〜」

言いながらリリカに向けて伸ばしていた腕を戻す。その手には、バターナイフ。
頬を触ってみると、ぬるりという油の感触。それを理解した瞬間、またしてもリリカの頭の中から夢の事など綺麗さっぱり吹き飛んでいた。

「―――メル姉さんのばかぁ!!」

憮然とした顔でリリカは、メルランの皿に乗っていたサラダのトマトをフォークで突き刺して自らの口に押し込んだ。

「あっ、私の!!」

悲観の篭った声で驚くメルランに、勝ち誇ったような笑みを向けつつトマトをもぐもぐと咀嚼してみせるリリカ。

「リリカのばか!!」

「メル姉さんのばーか!!」

それを皮切りに、メルランとリリカは口々に互いをバカバカ言いながら、相手の皿の朝食を自分の口に押し込んでいく。
そんな不毛な争いを十秒ほど続けた所で、立ち上がったルナサが妹二人の脳天へ思いっきり同時空手チョップ。

「食事中に騒がない!」

頭頂部を抑えてうずくまる二人にビシッと言ってのけ、ルナサは食事を再開した。
ばつの悪そうな顔でフォークを手に取るメルランとリリカ。ルナサは幾分表情を和らげたかと思うと、苦笑いを向ける。

「まったく、あなた達は昔っからそうなんだから」

すると、メルランも目玉焼きをナイフで切り分けながら懐かしそうな顔。

「確かに。私とリリカがケンカしてさ、いつも姉さんが止めるんだよね」

「分かってるなら最初からケンカするんじゃないの。止めるのも疲れるんだから」

「そんな事言っても、リリカだってすぐに乗るし。ねぇリリカ……リリカ?」

メルランが話を振るが、リリカは何も言わない。彼女はまたしても視線を何処かへ飛ばし、思い詰めた表情をしていた。

(―――むかし……そう、昔のこと……?)

ルナサの言葉で、何かが呼び覚まされそうな気がしていた。再び頭に蘇る、夢の中の光景。
そんな事は知る由も無いメルランは、再びバターナイフをリリカへ向けようとした。
それに気付いたルナサが素早くナイフをひったくったので、事無きを得たが。

 

―――ここは、どこ?

 

リリカは、また同じ場所に立っていた。明るい筈なのに見えない景色も一緒だ。

(……やっぱり動けない)

足を動かして歩こうとしたが、その足は接着剤で固定されたかのように動こうとしない。
その時だった。

 

―――『おねえさま……』

 

(―――また!?)

再び聞こえて来るか細い少女の声に、リリカは思わず辺りを見渡す。何も無い景色。足元に広がる植物と思しき影しか、目で分かる情報が無い。
尚も、声が聞こえる。

 

―――『リリカおねえさま……』

 

確かに自分の名前を呼んでいる。

(誰?だれなの!?)

声に出そうとして叶わない、その問いを空しく心の中で繰り返す内、再びあの少女の影が見えた。
リリカの前方、少し離れた場所で佇むその影。人影ということしか分からない。周りは明るい筈なのに、まるで磨りガラス越しのような感覚。

 

―――『おねえさま……』

 

その一言を残して、少女の影が視界から掻き消える。
リリカが思わず開いたその口からは、何も出てこない。

「―――!!」

半身をベッドから起こした体制のまま、リリカは荒く息をつく。

(……また、同じ夢……?)

訳が分からなかった。見たことも無い場所で、少女の声を聞く。ただそれだけ。
しかし、彼女にはその少女の声に覚えがあるのだ。聞いた瞬間、思い出そうとした瞬間の胸の苦しさが何よりの証拠だった。
だが、リリカは首を捻る。分からない、という素振り。誰もいないのに、誰かにそう伝えるかのような仕草。

「お陰で目覚めが悪いし、やんなっちゃう」

わざと口に出して言ってみせ、ベッドから飛び降りて窓を開けた。何から何まで昨日と同じ行動。
その時、ドンドンというノックの音が響く。ドアの外から何かが聞こえるより先に、リリカは歩いていってドアを開いた。

「おはよ、メル姉さん」

「あれ、何で私って分かったの?」

「昨日と同じだもん」

少し目を丸くしたメルランがそこにいた。
それから、リリカはふぅとため息一つ。何だか起きたばっかりなのに、疲れたような感覚。
すると、メルランが少し心配そうな表情を見せた。

「リリカ、具合でも悪いの?」

「え、なんで?」

唐突な問いに首を傾げるリリカ。

「だって何だかだるそうだし、顔色もあんまり……それに、何か汗かいてるし」

「へ、平気だよ。ただちょっと変な夢を見ただけ」

あまり心配をかけたくなかったので、リリカは手を振って弁明。だが、言ってしまってからその発言を少し後悔する。

「夢?どんな?」

メルランが尚も心配そうに尋ねるので、リリカは目覚めたばかりの脳をフル回転させて誤魔化そうとした。

「あ、えっと、ホントに大したことじゃないの。メル姉さんにひたすらバターを塗られるような、そんな感じの」

「なに、それ」

くすくすと笑って、メルランは軽くリリカの頭を小突いてみせる。全く痛く無かった。彼女もそのつもりなのだろう。

「もう、リリカは私を何だと思ってるのよ。朝ごはん作るから、少ししたら降りてきてね」

「うん、ありがとう」

それ以上の追求はせず、メルランは笑って台所へ向かうべく部屋を出て行った。その後ろでこっそり胸を撫で下ろすリリカ。
何故誤魔化したのかは自分でもよく分からなかった。ただ、まだ内緒にしておいた方がいいような気がしたのだ。
このおかしな夢が何を意味するのか。それとも意味なんて無い、ただの変な夢なのか。
それが分かるまで、まだ話すべきでは無い―――そう思った。

(あの夢は、いったい……?)

―――その答えが、リリカには既に分かりかけている。だが、彼女は頭の中で首を振ってそれを否定した。無意識の内に。

 

―――まただ。

 

リリカはまた、あの場所に立っていた。三度目ともなれば、驚きは多少薄れてくる。
それでも、不気味なほどに静まり返ったこの場所はリリカの心に不安をもたらす。

 

―――『おねえさま……』

 

やっぱり聞こえる少女の声に、リリカは身構えた。正確には、指一本動かせないので気持ちの上でだが。
そして現れる、少女の影。そんなに遠く離れていない筈なのに、顔がよく見えない。シルエットで判断しているようなものだ。
リリカはまた、声を聞きながらあの少女が消えてしまうのを待つつもりでいた。今までがそうだったからだ。
だが、この日は違った。
一歩、少女がこちらに歩いて来たのだ。足元が見えないので歩いたのかは分からないが、とにかくこちらに近付いてきた。

(……なんで?)

今までに無いその動きに、リリカは若干の焦りを覚える。身体も動かない、声一つ出せないこの状況が、彼女の不安を増大させていた。
一歩、また一歩と少女は近付いてきて、相手の姿がはっきりと視認出来る、数メートルほどの距離まで来て、立ち止まった。
それでも彼女は何も言わず、佇んでいるだけ。
しかし、リリカは彼女が近付いてきた事によりその姿をしっかりと見る事となる。

(………!)

リリカは目の前の少女を見る。遠くでは少しぼやけて見えたその髪形や、ドレスにも似たその服装、リボンの一つに至るまではっきりと視認する。
そして、思い知る。確かに目の前の少女に覚えがある事を。
何故か顔だけは見えないので、少女の表情を確認する事は出来ない。だが、それでなくとも十分なほどに明確なビジョンがリリカの心に現れる。

(だれ!?あなたは誰なの!?)

その事実を掻き消そうとするが如く、強い語調で尋ねようとした。だが、声は出ない。彼女の心の中で空しく響くだけだった。

(私は、あなたを知らない!知らないってば!)

どれだけ自分に嘘をつこうと、真実そのものを欺く事は出来ない。それが分かっていても、リリカはまるで呪文を唱えるかのように心の中で主張する。
やがて少女は、ふっとその姿を消してしまった。
リリカからはまだ顔だけは見えなかったのだが、どこか寂しそうな表情を浮かべていそうな気がした。

「………」

ベッドから半身を起こしたまま硬直するのも、これで三日連続だった。
リリカは額の汗を手の甲で拭い、ため息。

「……知らない。知らないもん」

ふるふると力無く首を横に振り、誰にとも無く呟くリリカの表情は、何かから逃れるかのようなある種の必死さが見て取れた。

―――コン、コン。

静かなノックの音で、リリカは我に返る。

「……今起きたよ。またメル姉さん?」

ドアに向かって言うと、ドアが開いた。

「……はずれ」

入ってきたのはメルランでは無くルナサだった。
彼女は妙に汗をかいたリリカの顔を見るなり、首を傾げる。

「おはよう……あなた、大丈夫?」

「だ、大丈夫だよ。なんでそんな事訊くの」

メルランと同じ事を訊かれて一瞬焦るリリカ。

「メルランがまた起こしに来た時、いくらノックしても起きる気配がないって言ってたから」

「私だって寝坊する時くらいあるよ。心配ないって」

熟睡していたというよりは、夢を見ることに夢中になっていたから起きなかったのだろうか。それも変な話だ。
ルナサは暫く彼女の顔を見つめてから、頷き、踵を返す。

「なら、いいんだけど。メルランがもう朝ごはん出来たって呼んでるから、早く着替えて来なさい」

「う、うん」

ルナサの背中を見送ってから、リリカはもう一度ため息をついた。
それから着替えを手に取り、ふと何も無い虚空に視線を走らせる。

「……もう、出てこないでね」

夢の中の少女に向かって言った、つもりだった。
それからさっさと着替えを済ませ、リリカはダイニングへと向かう。

―――リリカの希望は、叶わなかった。
一週間と少しが経過したが、彼女はあれから二日おきに例の夢を見続けた。
夢の中はやはり見た事の無い場所で、どこかから少女が呼びかけてくる。
その影が見えたかと思うと、こっちに近付いて来て、少ししたら消えてしまう。そして目が覚める。その繰り返しだった。
夢の中の少女は、何をしてくる訳でもない。ただ暫く佇んで、すっと消えてしまうのだ。何故近寄ってくるようになったのかも分からない。
近付いてくるにも関わらず、彼女の顔はよく見えない。いくら服装や髪型に覚えがあるとは言っても、顔が見えないのでは誰だか分からない。
―――リリカはそう、自分に言い聞かせていた。自分は彼女の事を知らない、と。

(どういうことなんだろう……)

居間のソファに座り、首を傾げるリリカ。時刻は既に昼過ぎ。
あんまりに同じ夢ばかり見るので、流石に彼女も不安になってきた。
だが、あんまり夢の事を考えるのは何だか気が進まなかった。理由は分からない。何故か、夢の事を追求するのを自身が拒否しているような感覚に囚われる。
だから、少し考えるだけですぐにやめてしまう。それを何度も繰り返した。

「な〜に変な顔してるのよ」

ソファに座ってぼけっとするリリカの顔を覗き込んでメルラン。

「別に変な顔なんてしてないよ」

リリカがそう返すと、メルランは『そうかしら』と呟いて肩を竦める。

「はいはい。リリカをからかってないで準備しなさい」

居間に入ってきたルナサがそう言ってメルランの肩を叩く。

「あれ、今からどっか行くっけ」

首を捻るメルランに、ルナサは少し呆れた表情。

「無縁塚に決まってるでしょ」

「あ、そっか。もうそんな日かぁ」

メルランはそう言ってポン、と手を叩いた。

―――その名は、レイラ・プリズムリバー。
彼女達の末妹にして、”騒霊”としての生みの親。無縁塚に建てられたその少女の墓に、彼女達は半月に一度墓参りへ行っていた。
それが当然の事だと思っていたし、彼女への”感謝”を表す方法だと思っていた。
ただ―――

「……リリカは?」

いそいそと準備を始めたメルランを尻目に、ルナサはリリカへ視線を向ける。
彼女はゆるりと首を横に振った。

「……私は、いいよ」

「やっぱり」

ルナサもまた、肩を竦める。
―――そう。リリカだけは、ただの一度も墓参りに行った事が無かった。行けないのでは無い。彼女自身が拒否していた。
彼女が墓参りを拒否する理由は、彼女自身にしか分からない。
毎回断られ続けても尚ルナサが同行するかを訪ねるのは、『来て欲しい』という思いがあっての事だ。

―――と、その時であった。

「リリカ」

支度を済ませたメルランが、リリカに声をかける。その表情はいつに無く真剣だ。

「前からずっと思ってたけど、どうして来ないの?あの子も、リリカが来てくれた方が嬉しいに決まってる。一度くらい行ってあげてよ」

メルランにしては珍しく、その声色は微かな怒気を孕んでいた。

「………」

何も言わずメルランの顔から視線を逸らし、俯くリリカ。

「何か理由でもあるの?」

「………」

「黙ってないで答えてよ!あの子が嫌いになった訳じゃないんでしょ?」

「………」

何を言ってもだんまりを決め込むリリカに、メルランがさらに何か言おうとして口を開いたその瞬間、ルナサがメルランの腕を掴んで強く引っ張った。

「うわっ!」

「ほら、その話は今はいいでしょ。リリカ本人がいいって言ってるんだし。早く行くわよ」

「ちょ、姉さん……」

「リリカ、留守番よろしくね」

「……うん」

返事が聞こえたのを確認し、そのままメルランを引っ張ってルナサは玄関から外へ出た。
静かになった居間で、リリカは黙ってため息をつく。
何だか、何をする気にもなれなかった。

―――無縁塚への道中にて。

「ちょっと、姉さん!いきなりどうしたの」

「……メルラン。リリカとあの子の事は、あなたも知ってるでしょ?」

「……! でも!」

「リリカは多分……思い出したくないのよ。あの子のことを」

「……私、あとで謝ってくる」

「駄目よ。それは余計にリリカにその事を思い出させるだけ。無かったように振舞うのが一番じゃないかしら」

「……そうする」

 

―――『おねえさま……』

 

―――『リリカおねえさま……』

 

―――『……おねえさま……』

 

―――『…………』

 

それから、さらに暫くが経って。
変わらぬ日常。その中でやはり、リリカは夢を見続けた。
”リリカにとって”知らない少女からの呼びかけ。近付いて来て、何もせずに消えてしまう。
それだけの夢を何度も何度も繰り返し見て、彼女の心はすっかり疲弊しきっていた。
別段怖い夢という訳でも無いのに、その狼狽ぶりは傍から見てもはっきり分かるほど。

「ねえ……本当に大丈夫なの?」

―――居間。急に声を掛けられたリリカが慌てて面を上げると、心配そうにルナサが覗き込んでいる。このシチュエーションも初めてでは無かった。

「な、なんで?」

平静を装って尋ね返すと、それに答えたのはルナサでは無く丁度やって来たメルランの方。

「なんでって、決まってるでしょ。どう見ても顔色悪いし、ぼーっとしてる事が多いし。ほっとけないよ」

再三にわたる妙な夢による精神的な疲れは、姉妹の目から見ても明らかなもの。その事実を突きつけられ、リリカは無理矢理に元気な声を出す。

「だ、大丈夫に決まってるでしょ!私だってボーッとする事くらいあるし、ルナ姉さんじゃないんだからずっとこのままな訳じゃ」

「一言多い。ヒトが心配してるのに」

「まあ、思ったより元気そうで安心したけど……無理はしないでよ」

呆れ顔のルナサと、少し安心したらしいメルラン。憎まれ口を叩いてみせたのは効果的だったようだ。
と、ここでルナサが思い出したように話題を変える。

「そうそう、これからメルランと買い出し行ってくるけど……あなたは休んでた方が良さそうね。どうする?」

見やれば、メルランも空っぽの手提げ袋を手にして準備万端。

「ん〜、私はいいや。ちょっと疲れてるのは事実だし、寝不足みたいだから昼寝でもしてるよ」

「そう。じゃあ、留守番よろしくね」

あまり出かける気にはなれなかったので、リリカは首を振る。

「お土産買ってくるよ。元気が出そうなもの……唐辛子ペーストひとビンとかどう?」

「買ってきてもいいけど、全部今日のメル姉さんの夕ご飯に入れるからね」

軽口一つずつ叩き合ったのを最後に、リリカは姉二人が玄関から出て行くのを見送った。
ドアが音を立てて閉まったのと同時に、彼女は今まで座っていたソファに仰向けで寝転がる。
それから宙に向かって長く息をついた。

(……昼寝でも、あの夢を見るのかな)

途端に全身を襲う倦怠感に、リリカはうっすらとそんな事を考える。
―――正直、もうあの夢を見たくない。お陰でこんなに疲れきり、寝不足で、姉にも心配をかけている。
夢に出てきた少女に向かってぶつぶつと文句を言っている内に、リリカはソファの上で意識を手放していた。

 

―――見える筈の景色は、白いもやに包まれて、よく見えない。

 

またしても”あの”場所に立っていたリリカ。昼寝でもこの夢に誘われるのか、と彼女は頭の中でため息をついた。
夢を見た回数は二桁に上っていたが、未だに景色がはっきりと見えない。地面を覆っているらしき植物の種類も分からない。

 

―――『おねえさま……』

 

やはり聞こえてきた少女の声。視線を走らせる―――と言っても正面なのだが―――と、例の少女がそこにいる。

(もう出てこないで、って何度も言ったのに!)

こう何度も出てこられては、さしものリリカも文句の一つでも言いたくなる。
少女はゆっくりと近付いて来て、止まる。数メートルの距離。
こうなっては、彼女が消えるのを待つだけ。いつも通り。暫くしたら目が覚める。
―――そう、思っていた。

 

―――『リリカおねえさま……』

 

違った。
もう一度呼びかけられたかと思うと、少女はリリカに向かって、さらに近付いてきた。

(えっ?)

一歩、また一歩とリリカに歩み寄る少女。今までに無い展開に焦りを覚えるリリカ。
ただ現れるだけだったのが、少し近付いて来るようになった―――その変化の時よりも、大きな焦りと緊張。
とうとうその距離は、僅か一、二歩程度の間隔しか無い。少女は若干俯き気味のまま立ち止まる。

(ど、どうして……?)

目の前まで来られた事によって、少女の姿がほぼ完全に浮き彫りとなる。
思わず少女の頭からつま先まで視線を走らせてみると、リリカの心臓はさらに鼓動を速めた。
―――やっぱり、知っている。

(違う!私はこの子を知らない!知らないの!!)

首を振ることが出来たらどんなに気が楽だったか、しかし彼女の体は一切動かない。
明確な理由も無く、違う、知らない、と自分に嘘をつき続ける。リリカはただひたすらに、目の前の少女が知らない少女であると心の中で主張する。
だが―――

 

―――『おねえさま……さみしいよ』

 

少女が呟き、同時にその顔をゆっくりと上げた。


―――刹那、リリカの全身を稲妻が駆け巡るかのような衝撃が襲う。


リリカは見てしまった。
その少女の顔を。
絶対に見間違う筈の無い、その顔を。
遥か昔に封印した筈の、思い出の中の顔を。

 

―――『……さみしいよ。どうして来てくれないの?』

 

(あ……あぁ……)

もう否定する事も忘れていた。リリカの心に、少女の言葉が深々と突き刺さる。

 

―――『ルナサおねえさまも、メルランおねえさまも来てくれたのに、どうしてリリカおねえさまは来てくれないの?』

 

リリカの今の感情は、言葉では表せそうに無い。今すぐ泣きたいような、叫びだしたいような。
荒くなる呼吸、速くなる心音。それでも尚、リリカは棒立ちのまま動けない。
目の前の少女は、今にも泣きそうな顔をしていた。

 

―――『……リリカおねえさまは、私のことがきらいなの?』

 

どくん、と心臓が跳ねた。

(違う!!違う!!そんな訳ない!!)

自分に嘘をつき続けたリリカの、本当の、心の叫びは声になっては出て来ない。
今すぐにでも否定したかった。首を振って、違うと言いたかった。
少女の事を否定していたのに、今度は嫌いではないと逆ベクトルの否定。だが、今のリリカにはそんな皮肉を言った所で聞きはしないだろう。

 

―――『……おねえさま……さみしいよ……』

 

少女は悲しげに呟いたかと思うと、その姿が徐々に消え始めた。

(待って!!いかないで!!私の話を聞いて!!)

その腕を掴まんと必死に伸ばそうとした手も伸びず、引き止めようとした叫びも出て来ず。何も出来ない。
段々と薄くなっていく少女の姿を黙って見るしか出来ない。
―――その時だった。消え行く少女と入れ替わりになるかのように、どこかから別の声が聞こえてきた。

 

―――『もう、しょうがないなぁ。おねえちゃんにまかせなさい!』

 

―――『私が、何があっても守ってあげるからね』

 

―――『やめて!!私もここにいる!絶対に離れないもん!!』

 

―――『……私も、人間のままでいたかったよ……』

 

(……私の……!)

聞こえてきたのは、自分自身の声だった。
それに気を取られた次の瞬間、少女の姿はもう殆ど見えなくなっていて―――

(……!!)

一瞬。最後の一瞬、体が動いた。
少女に向かって必死に伸ばしたその手は、空しく虚空を掠めるだけ。

 

―――『……おねえさま……』

 

最後に聞こえた少女の声と、リフレインする己の声が混じり、消えてゆく。
フラッシュバックする、遥か昔の光景。
限界だった。


(あ……あぁ……あああぁぁぁぁぁ!!!!)

 

喉が震えた―――

 

 

 

 

 

『レイラァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!」

 

 

 

 

 

―――リリカ!


―――リリカ!!大丈夫!?


「あぁぁ、うああぁぁっ!!……あ?」

目を開けたら、目の前にはあまりに見慣れた姉の顔が二つ。

「あれ?わたし……」

「大丈夫!?リリカ!」

「あう……ここは……」

「家だよ。ちょうど私たちが帰ってきたら、リリカの叫び声が聞こえたから、何があったんだってすっ飛んできたんだよ」

「もう、あんまり心配かけさせないでよ……物凄くうなされてたわよ?」

ルナサもメルランも一様にリリカを心配そうに見ている。掛けられる声が妙に優しく感じた。
体が重かったが、リリカは何とか半身をソファから起こす。ひどく汗をかいていたし、頭がふらふらした。
改めて二人の方を向く。見慣れた二人の顔が、今のリリカには大きな安堵感をもたらした。

「……ごめん。もう大丈夫だから……」

「大丈夫には見えないわよ」

ルナサに言われ、リリカは唇を噛んだ。
少しの間の沈黙。それを破ったのは尚もリリカであった。

「……叫んだ、って言ってたけど……私は何て?」

少し予想はしていたが、あえて尋ねてみた。
ルナサとメルランは顔を見合わせる。少し言い辛そうだったが、意を決したようにメルランが口を開いた。
そして、ただ一言。

 

「―――レイラ」

 

それを聞いたリリカの表情が一瞬だけ強張る。
だがすぐに元の表情に戻ると、やっぱりか、とでも言いたそうにリリカは天井を仰いだ。
首を戻すと、再びリリカは二人に顔を向ける。

「……私……わたしね……」

だが、話そうとしたリリカをルナサは手で制した。

「……まだいいわ。話し辛そうだし、何よりあなた、疲れてるもの。とにかく今は休みなさい」

「でも……」

「いいから」

穏やかな口調だったが、ルナサの言葉には決して逆らえないような何かを感じる。幼少の頃からの刷り込みかもしれない。
でもリリカはその優しさが嬉しくて、小さく頷いてから立ち上がった。

「なんていうか……ごめん」

「お詫びなら、ちゃんと休んでリリカの元気な姿を早く見せて。……ご飯、あとで部屋に持って行くからね」

「……ありがと」

メルランにお礼の言葉を返し、リリカは自室へ向かった。
ぎし、ぎし、と歩くたびに少しだけ軋む廊下を歩き、自室のドアを開ける。
すぐさまベッドに倒れこんだリリカの頭の中で、夢の中の光景が再び蘇る。

(私の声が聞こえた……それも、ずっと前の)

少女の―――レイラのものだけではない、自分の声が聞こえたというその事実に、リリカは動揺を隠せない。
ずっと、ずっと昔の、忘れようとした思い出を詰め込んで封印した箱が抉じ開けられた。
一度開いたその箱は閉じる事叶わず、思い出達が次々と溢れてリリカの心に溶け込んでいく。

(―――レイラ……)

たった一人の妹の名を呟いて、リリカは目を閉じる。
閉じたばかりの瞼から涙が一筋伝って、枕に小さな染みを作った。

 

―――リリカ・プリズムリバー。

 

人間の貴族・プリズムリバー家の三女として生を受けた彼女は、両親と、既に生まれていた二人の姉からの愛情を一身に受けて育った。
生真面目で素直な長女のルナサと、とにかく明るくて元気な次女のメルラン。二人は一番下の妹ということで、大層リリカを可愛がっていた。
リリカもそれなりに成長してきたある日、姉妹は両親からもう一人家族が出来る事を知らされる。
三人とも喜ばない筈は無かったが、一番その知らせを喜んだのは他でも無い、リリカであった。
いつも妹として、守られる存在だった彼女。そんな彼女に、妹か弟かは分からないが『守るべき対象』が出来るのだ。
まだ幼いながらにも、早くも姉としての自覚を芽生えさえたリリカは連日、母親の膨らみゆくその腹部へ向かって語りかけたものだ。
早く生まれておいで、おねえちゃんが待ってるよ、と。
そして、とうとう新たな家族が誕生した。

 

―――レイラ・プリズムリバー。

 

そう名付けられた、プリズムリバー家の四女。
初めて妹が出来たリリカは、母親の腕の中で眠る小さな命をキラキラした目で見つめていた。
その頬に触れようとして伸ばした小さな手。あと少しで触れようかという所で突然レイラは目を覚ましてしまい、驚いて手を引っ込める。
おっかなびっくり、もう一度手を伸ばしたら、レイラはその手を握ってくれた。その温かさは、リリカにとって生涯忘れえぬ温もり。

 

―――それから月日は流れて。
レイラも成長した。いつの間にか立ち、歩き、走り、言葉を喋るようになり、姉達と一緒にあちこち遊び回った。
そんな中で、リリカはいつもレイラの傍にいた。妹を守るのが姉の役目と言わんばかりに、常にレイラを気にかけ、彼女を危機から遠ざけようとしていた。
レイラが笑っていれば一緒に笑い、レイラが泣いていれば慰め、レイラが怒られていたらそれを必死になって庇った。
喧嘩もした。だが、姉や両親が止めに来たら、今まで喧嘩していた事も忘れたかのようにレイラを庇い、悪いのは自分だと言い張る。
レイラが困っていれば真っ先に駆けつけるのもリリカだった。レイラの問題は己の問題と言わんばかりに。


―――『もう、しょうがないなぁ。おねえちゃんにまかせなさい!』


それが、リリカの口癖だった。
両親やルナサ、メルランは勿論だが、特に並々ならぬリリカの愛情と優しさを受け、レイラは思いやり溢れる心優しい少女へと育っていった。

 

そんな、ある日。大事な用事があると言って、両親が姉妹を屋敷に残して出掛けていった。
昼間はいつも通りに遊んで過ごした姉妹だったが、日が暮れ、夜になっても両親は帰って来ない。
それどころか、夜になってから急に天気が崩れ、大雨と暴風が荒れ狂う嵐となる。
窓を際限無く叩く激しい雨音と風の唸り声に、両親不在の姉妹達はかつてない不安と恐怖の中にいた。
時折鳴り響く、大地を割るかのような雷の轟音に身を竦ませ、その小さな身を寄せ合って一夜を過ごす。
何故両親は帰ってこないのか、この嵐はいつ収まるのか。
二重で襲い掛かる不安の波に呑まれ、かたかたと震えるレイラを、リリカは必死に励ました。


―――『私が、何があっても守ってあげるからね』


そう言ってレイラの肩を抱き、安心させるようにその背をさする。すると、レイラの不安も幾許かは取り除かれたようだった。
初めて両親のいない夜、しかも外は大嵐。今にも泣き出したい筈なのに、リリカは気丈に笑ってみせた。
妹を不安がらせる訳にはいかない―――その一心で、一晩中リリカはレイラを励まし続けた。
―――大丈夫。きっと明日になれば嵐も止んで、お父さんもお母さんも帰ってくる。

 


―――結局。プリズムリバー四姉妹の両親がその足で屋敷に帰る事は、二度と無かった。

 


―――嵐による土砂崩れ。
姉妹の両親が帰らぬ理由がそれであると聞かされたのは、嵐の日から二日後の事。
まだ大人には程遠かった姉妹はその事実を認識出来ず、呆然としている間に近所に住んでいた人々や数少ない親戚が屋敷にやって来て、葬儀の準備を進めていくのをただ見ているしか無かった。
大量の土砂に埋もれた状態で見つかった物言わぬ両親が棺に入れられて屋敷に帰ってきた時も、
『惜しい人を亡くした』『子供達があまりに可哀想だ』と涙ながらに話す人々で家が埋め尽くされた通夜、葬式の時も、
まるで眠ったような穏やかな顔をした両親と最後の別れをした時も、ただただ、姉妹は呆然としていた。
だが、いよいよ両親の棺が墓の下へ埋められようとしていた時。別れを惜しみながらその様子を見守る人々の中に混じった姉妹。
土の中へと埋められていく両親を見て、ぽつり、とレイラは呟いた。

『どうして、お父さまとお母さまを埋めちゃうの?』

理解はしていた。認めたくないだけだった。
レイラのその言葉に何かを断ち切られたが如く、堰を切ったように泣き出す三人。
分かっている。もう、両親は帰って来ないという事など。
でも、もしかしたら。もしかしたら、目の前でその棺が開き、『嘘だよ、驚いたかい?』などと言いながら笑顔で両親が出て来てくれるかも知れない。
だが、レイラのその言葉が、目の前の事実を何よりも如実に物語る。
現実を突きつけられて、どうしようも無く悲しくて、寂しくて、ルナサも、メルランも、リリカも、ひたすらに泣いた。
それを見たレイラも途端に悲しみが込み上げて、何が何だか分からないままにとにかく泣いた。慟哭、と言った方がいいかも知れない。
茜色に染まる空の下、一際大きな姉妹の泣き叫ぶ声が響き渡る。やがて、両親の身体は冷たい土の中へと消えていった。

 

屋敷に帰っても尚泣き続ける姉妹。今はもう、この屋敷には自分達しかいない。
そんな中で、リリカは隣でひたすらに泣きじゃくるレイラを見やる。
一夜にして孤児となった四人。これからは姉妹四人で力を合わせて生きていく事になるのだろう、とリリカは思っていた。
もっと幼い頃からいつも自分の傍にいて、ずっと大切にしてきたこの妹を、何としてでも守りたい。
リリカはそっとレイラを抱き寄せ、囁く。

『これからは、私がレイラのお母さんになる。だからもう泣かないで』

本当はいくら泣いても泣き足らぬくらい悲しいのに、それでもリリカは妹へ優しく笑ってみせた。
その笑顔を見て、いつの間にかルナサもメルランも泣き止んでいた。
どうにかなる、そんな気がした。リリカのその笑顔が、その気にさせた。

―――だけど、現実はそう甘くない。
長女のルナサですら大人とはとてもではないが言えぬ年齢の四姉妹、独力で生きていく事など不可能だった。
数少ないながらにも親戚はいたので、最初はそこで姉妹揃って暮らせる、そう思っていた。
だが、一度に四人もの子供を抱えるのは経済的に不可能で、精々一人が限界という現実の壁。
それは何も親戚に限った話では無く、こうなれば姉妹が散り散りになってしまうのは必定であった。
ずっと一緒だった姉妹の離散。どうしようも無く寂しいけれど、生きていく為には仕方無い。姉妹達は何とか割り切ろうとした。
他にも子供を授かる事の出来ない夫婦などから引き取りたいとの申し出があり、どうにか姉妹全員の引き取り手の目処は立った。
―――だが。

『わたし……この家から離れたくない』

そう言ったのは、レイラだった。

『この家には、お父さまやお母さま、お姉さまたちとの思い出がいっぱいあるの。この家を出て行くなんて、ぜったいにいや!』

それが彼女の言い分だった。
当然、周りの大人達が説得に掛かった。気持ちは分かるが、一人ではとても生活なんて出来ない。いつか死んでしまう。
どうかここを離れて、優しい人の下で幸せに暮らして欲しい、と。
しかし、レイラは頑なにそれを拒んだ。見かねた姉妹も彼女を説得したが、それでも彼女は決して首を縦には振る事は無かった。

 

―――やがて引き取りの日が訪れ、まず親戚の家に引き取られる事となったルナサが屋敷を去った。
レイラはそれを引き止めようとしたが叶わず、涙を浮かべて手を振った。
それから数日。続いて、子供の出来ない夫婦に引き取られる事になったメルランもいなくなった。
レイラは最後の瞬間までメルランの腕を掴んで離さなかったが、結局留めておく事など出来る筈も無かった。
『お姉さま』と何度も何度も呟いては涙をこぼすレイラを、残されたリリカはただ励ます事しか出来なかった。
そして、リリカは決意する。

『私も、この家に残る!』

―――もう、レイラには自分しかいない。自分がいなくなったら、誰がレイラを守る?
リリカに最早、迷いは無かった。どんな結末を迎えようと、レイラと共に残された人生を歩むのだ。
それを聞いたレイラは、嬉しさでさらに涙を流す。すっかり人気の無くなった屋敷の居間で、残された二人は固く抱き合った。

 

―――どんなに強い決意も、現実の前にはあまりに脆く、儚い。
リリカにも引き取りの日が訪れるのは、時の流れを止める術も、運命を操る術も持たない彼女達には避けられぬ事。
リリカを引き取る事になったのは、ルナサとは別の親戚夫妻。リリカにとっても多少の面識はあった。
だが、いざ引き取りの時になると、リリカは激しく抵抗した。

『やだ、やだっ!私はレイラとずっとここで暮らすって約束したの!』

いくら言ってもその場を動こうとしないリリカに、引き取り手の親戚夫妻も困った表情。

『やめて!!私もここにいる!絶対に離れないもん!!』

引っ張って連れて行こうとしても、彼女はレイラにしがみ付いて離れようとしない。それはレイラも同じ。
何に換えてもこの手を離すものかと言わんばかりにリリカの腕を強く掴む。
埒が明かないので半ば無理矢理に抱きかかえて連れて行こうとすると、リリカはとにかく暴れて逃れようとした。

『行かないってば!!レイラ!!レイラァァッ!!』

あまりに激しい抵抗に夫が思わず手を離すと、リリカは一目散にレイラの元へ駆けて行き、二人して抱き合ってひたすらに泣きじゃくる。
もうどうしようも無いので、夫妻は一度その場を離れた。
結局、日が暮れた頃に戻ってみると二人は泣き疲れて抱き合ったまま眠っていたので、そっとリリカだけを抱き上げる。
少し残酷な気もしたが、リリカの為だと自分に言い聞かせ、夫妻はリリカを連れて行った。

 


―――こうして、プリズムリバー四姉妹の内、姉三人がそれぞれ違う家へと引き取られ、四女のレイラだけが屋敷に一人で残る形となった。
”人間の”ルナサ、メルラン、リリカは、その後レイラがどうなったかを知る由も無い。

レイラはその後も、たった一人で屋敷に篭り続けた。
時折人が訪れても決して反応せず、諦めて帰るまで待つ。
脳裏に浮かぶのは、いなくなった姉達の事ばかり。
その姿を決して忘れまいと、視界から消える最後の瞬間までじっと見つめてきたルナサ。
レイラに掴まれた腕が解けた瞬間、普段の明るさからは想像もつかない程、悲しそうに目を伏せたメルラン。
そして、最後まで一緒にいてくれた、絶対に離れないと誓ってくれたのにいなくなってしまったリリカ。
どんな形でもいいから、大好きな姉達にもう一度会いたい。その思いが、レイラを動かした。
それは、思春期の少女だけが使えるとびっきりの魔法。レイラはありったけの思い出を込めて、姉の姿をした騒霊を三体創り上げた。
三人にそれぞれ異なる音色を授け、楽器を持たせる。またあの頃にように、賑やかに暮らしたい。

『おはよう、お姉さま』

それが、生まれた騒霊に最初にかけた言葉だった。
レイラの記憶や思い出を元に形作られた騒霊達。その記憶は、レイラとの思い出の終わり―――別れの瞬間までで、そこから先は途切れている。

『私……どうしたの?どうしてレイラがいるの?』

途切れた記憶が更なる混乱を呼び、戸惑うリリカにレイラはにっこり笑って語りかける。

『人間のお姉さまとは離れ離れになっちゃったけど、騒霊なら一緒にいられる。約束……してくれたよね?』

はっとして、リリカはレイラを見やった。別れの前に誓ったあの約束を、彼女は忘れる筈も無かった。
自分がどんな形でこれから生きていくのか、騒霊とは何なのか―――それらの疑問も忘れて、リリカはレイラの手を取る。

『う……うん!守る、守るよ!!これからはずっと、レイラと一緒にいる!!』

レイラだけでは無い、その横には同じく騒霊として生まれ変わった二人の姉もいる。
プリズムリバー邸に、以前のような―――いや、それ以上の騒がしさが戻った。

騒霊の力は、元となった想いの強さに比例する。
最初は普通に楽器を演奏するだけだった三人も、いつしか様々な楽器を手足のように操る事が出来るようになっていた。
毎日のようにレイラの前で演奏しては、ささやかな拍手を貰う。そんな変わり映えのしない毎日が、本当に楽しかった。
レイラのリクエストで楽器を変え、曲を変え、時には振り付けなんかもしながら、レイラの為だけのライブを連日連夜開催する。
人間では無くなった事に戸惑いを感じながらも、騒霊として生んでくれたレイラに感謝を伝える為、そして何よりも以前のように姉妹仲良く笑って暮らす為に、ひたすらに楽器を駆り、音を奏でる姉妹。

『ちょっとメル姉さん、音外さないでよ』

『うるさいなぁ、リリカこそさっき三回も間違えてた!』

『メル姉さんのばかー!!』

『なによ、リリカのばか!!』

『やめなさい、二人とも。ただでさえ騒々しいのに余計うるさくなる』

『あははは。どっちも上手だよ、お姉さま……人間の時と、本当に変わんないね』

『え、何か言った?レイラ』

『……なんでもない!』

そこには、人間のプリズムリバー四姉妹と同じ構図があった。
本当はバラバラになった筈の姉妹と一緒に、以前のような時間を共有できる事が、彼女達にとってのこの上ない幸せ。
いつしか周りから忘れ去られたレイラと屋敷、そして騒霊三姉妹は、幻想郷へ。それでも尚、彼女達は騒いで、笑って、怒って、泣いて、また笑う。
この幸せが、永遠に続くと思っていた。

 

―――だが。
騒霊であるルナサにメルラン、そしてリリカは何年経っても生み出された時の、少女の姿を保つ。
だが、人間であるレイラはそうはいかなかった。少女は大人の女性となり、やがて老いていく。
刻々と変化するレイラの姿を見て、姿の変わらぬ三人は胸が締め付けられる思いだった。
しかし、レイラは姿こそ老いても少女だった頃とまるで変わらない。姉達の演奏に、心からのささやかな拍手を贈る。
それがまた、『私の事は気にしないで』というレイラからのメッセージのように思えて、ますます胸が痛かった。
そんな心を楽しい事で塗りつぶし、押し隠すかのように、三人の演奏はますます騒がしく、楽しいものになっていく。
いつ聴いてもパワーを失わないその演奏に、レイラも満足そうに笑っていた。

『お姉さまたちの演奏を聴いてたら、なんだかいつまでも一緒にいられそうなくらい元気になれるんだ』

ある日にレイラが言ったその言葉が現実になるのなら、ルナサもメルランもリリカも、何だってしただろう。

 

―――騒霊として生まれて、何十年経っただろうか。その日は、ついに訪れる。

 

『そんな顔しないで、お姉さま』

ベッドに横たわり、力無く笑うレイラの言葉は大分掠れてしまっている。
いつも居間や広間までやって来て演奏を聴いていたレイラだったが、いつしかライブの開催場所はレイラの自室になっていた。
椅子に座って演奏を聴いていた彼女も、ベッドに腰掛けるようになり、やがてベッドで寝たまま演奏を聴くようになった。
そうなっても尚拍手を贈ってくれるレイラなのに、とうとうそれすら出来なくなって、もう起き上がる気力も無くて。
今まさに、その命の灯火が消えようとしている。それは、永い永い命を得た騒霊の三人にもはっきりと分かる。彼女達がかつて人間として暮らしていた事があったからなのかも知れない。

『無理に……決まってるでしょ……!レイラ……』

早くもぼろぼろと涙をこぼし始めるメルランに向けて、レイラはゆっくりと言葉を紡ぐ。

『私の……思い出の中のメルランお姉さまは、いつも……笑ってた。だからね、笑ってほしい。笑って、見送って、ほしいな』

『でも……でもっ!!』

唇を噛みしめるメルランの横で、ルナサがぽつりと呟く。

『……きっと、元の世界にいる人間の私達も……そろそろいなくなってしまうのかしらね。或いは、もう……』

『でも……ルナサお姉さまは、たしかに、ここに、いるよ。騒霊も、人間も、おなじ』

『私は、これからも生き続けるでしょうね。メルランやリリカと一緒に。出来るなら、レイラ……あなたも来て欲しかった』

『ごめん、なさい。お姉さまの、いうことを聞けない、悪い妹だ、よね』

『………』

ルナサは黙って、レイラの頭をそっと撫でる。まだ温かい。
その表情は穏やかな笑み。妹を叱った後に必ず見せる優しい姉の顔。

『……レイラ……』

リリカは彼女の名を呟き、その手を握る。
弱々しくだったが、レイラもその手を握り返した。

『ありがとう、リリカ、お姉さま』

『……ごめんね、レイラ……わ、私、約束、また守れなかった。ずっと一緒にいるって、い、言ったのにぃ……』

とうとう泣き出してしまったリリカの手をもう少し力を込めて握り、レイラは笑った。

『ちがう、よ。今のいままで、お姉さまは、わたしと、いっしょに、いてくれた。もう、じゅうぶん』

『まだ足りないよっ!!私は、もっと、もっと、レイラと一緒にいたいの!ずっと、レイラと笑ってたかった!!』

『わたしも、おんなじ。おねえさま、と、ずっと、いっしょに……』

そこから先は、聞き取れなかった。その目が、ゆっくりと閉じる。リリカは叫んだ。

『レイラ?レイラ!?おねがい、何か言って!!』

『………』

『やだ、そんなのやだっ!!もっと私の妹でいてよ!!』

『………』

『レイラ!!レイラ!!』

『……だいすき』

『―――!!!?』

―――確かに、そう言った。
そして、最期にたった四文字のメッセージを紡いだその唇が動く事は、もう無い。

『……レイラ!!』

『レイラ!?』

『ねぇ、起きてよ!何か言ってよ!!ねぇ、レイラ!!レイラッ!!』

動かない妹の身体に取り縋り、ただその名を呼び続ける三人の騒霊。
リリカの手は、レイラの手を握ったままだった。
彼女の脳裏に浮かぶ、ずっと昔の光景。レイラが生まれたばかりの頃、母親の腕に抱かれた幼いレイラに手を伸ばすリリカ。
まだ言葉も発せぬレイラは、ただその手を握ってくれた。あの小さな手と、同じ温かさ。
その温もりが、まさに今、リリカの手の中で消えていく。

幻想郷に、プリズムリバー家の墓は無い。
だから残された三人の騒霊姉妹は、無縁塚にレイラの墓を建てた。
棺にレイラの亡骸を納め、無縁塚へと運ぶ。穴を掘り、そこへ棺を入れる前に最期の別れ。
その時に、リリカはレイラの顔を見つめて、肩を震わせた。

『……私も、人間のままでいたかったよ……』

レイラの眠ったように穏やかなその顔に、涙の雫がぽたり、と落ちる。

『騒霊として生まれた事を否定するんじゃない。けど、やっぱりレイラと同じ人間として、同じ時間を生きて……一緒に眠りたかったの。
 お墓の中でつきっきりになれば、レイラの身体をずっと私が守れるのに』

リリカはレイラの顔に落ちた雫を拭い、棺の蓋を閉めた。
いつしかの両親と同じように、レイラの身もまた冷たい土の中へ。
真新しい墓石には、レイラの名前が刻まれている。その前で、ただじっと墓を見つめる姉妹。まるで別れを惜しむかのように。
やがて日も暮れ、辺りは暗くなる。そろそろ屋敷に戻ろうかと思って動いたルナサとメルラン。だが、リリカは石になったかのようにそこから動かない。
誰よりもレイラを可愛がっていたのはリリカだという事を知っていた二人は、その最期の別れを邪魔する真似はしなかった。
ただひたすらにリリカの背中を見守る。指一本動かずに立ち尽くして墓を見つめるリリカを、後ろからずっと見ていた。
やがて夜も更け、日付が変わり、丑三つ時も過ぎて、東の空が白みを帯び始めた辺りでようやくリリカは墓に背を向けた。
そこで初めて背を見守っていた姉の姿に気付き、彼女は少し驚いた顔をした。

『待ってくれてたの?』

『当然よ』

事も無げに言ってのけるルナサ。その横でメルランは優しく笑いかける。

『あなたも、レイラと同じ……私たちの大切な、妹なんだからね』

『……ありがとう』

それだけの会話の後、三人は肩を並べて無縁塚から去っていく。

 

 

 

 

 

―――その日からだった。リリカが、”レイラ”の名を一切口にしなくなったのは。

―――人間は、本能的に闇に対して恐怖を覚える。
そんな心理学ぶった言い回しをせずとも、夜の闇の中を一人で歩く事が、幼い少女にとってはこの上ない恐怖となるというのは紛れも無い事実なのである。
レイラは、小走りで夜道を駆けていた。日は既に落ち、辺りをすっかり宵闇が包み込んでいる。
一人でいつもより遠くまで遊びに行ったら、帰り道がよく分からぬままに日が暮れてしまった。
不安げな表情で辺りを見渡すレイラは、歩みを止めようとはしない。立ち止まったら、そのまま闇に飲み込まれて二度と家に帰れないような気がしたからだ。
その時、前方に人影が見えた。決して立ち止まろうとしなかったレイラも思わずその場に硬直する。
昼間に前方から人が来たとて何も感じはしないが、夜という時間と、それに付随して相手を視認出来なくする闇への恐怖がレイラを立ち止まらせた。
人影は、少しずつこちらへ近付いてくる。レイラが思わず後ずさろうとしたその時、闇を切り裂いて眩しい光が彼女の目に飛び込んできた。

『あっ、いた!レイラ!!』

それと同時に聞こえてきたのは、今のレイラが最も聞きたかった声だった。
目の前にいるのが、光源である懐中電灯を持ったリリカであると認識した瞬間、レイラは駆け出していた。

『……お姉さま!!』

リリカは懐中電灯を一旦消灯し、ポケットへしまう。
そのまま突っ込んできたレイラを、しっかり抱きとめてやる為に。

『もう、こんな遅くまで出かけて!みんな心配してたんだから!』

みんな心配しているのは事実であるし、少し厳しく言ってやらねば、と思ったリリカはレイラを叱るが、

『……ごめんなさい、お姉さま……』

リリカの胸元に顔を埋めたレイラの声が涙声になっている事に気付き、慌ててその頭を撫でてやる。

『な、泣かないでよ。そこまで怒ってないったら……さ、帰ろ』

みんな心配しているのは事実。確かにそうなのだが、最も心配していたのは他でも無いリリカ自身だ。
日が暮れて、夜になっても帰らないレイラにいてもたってもいられず、懐中電灯片手に飛び出した。
二十分以上の捜索の末にやっと最愛の妹の姿を見つけ、正直泣きたい程であったがレイラの手前でそれだけは何とか堪える。

『ほら、ちゃんと手つないで』

『……うん』

一旦リリカから離れ、レイラは差し伸べられたリリカの手をしっかりと握る。
リリカはレイラの手を決して離さぬよう強く握り返し、彼女を引っ張るような形で歩き出した。
再び懐中電灯を取り出して足元を照らしながら歩を進める。来た道はちゃんと理解している。

『それにしても、どうしてこんな遠くまで来たの?』

普段は滅多に遠くまで行かない、行く場合でも必ず姉妹と一緒だったレイラが一人で遠出した事に、リリカは疑問を感じていた。
するとレイラは少し声を震わせる。

『……前、リリカお姉さまが連れてってくれたお花畑に行ってきたの。もう一回見たくなって……』

『え……あの場所に?一人で!?』

リリカは以前、レイラを連れて大きな花畑に行った事があった。季節毎に様々な花を咲かせるその場所はリリカのお気に入りで、誰にも話した事の無い秘密の場所。
姉にすら教えなかったその場所だったが、レイラにどうしてもその光景を見せたくなり連れて行ったのが、半月前。
しかし、その花畑は屋敷から結構離れており、道を知るリリカでも片道三十分は歩かねばならない。
一度行っただけで碌に道を知らないレイラがそこへ辿り着き、さらに迷いながらも途中まで帰ってきたというその事実にリリカは驚いていた。

『じゃあ、最初から私に言えばよかったのに!』

レイラが言えば何度でも連れて行くつもりだった。なのに何故、迷うリスクを冒してまで一人で行ったのか。
それを問おうとして言ったその時、レイラが先程から繋いでいない方の片手を不自然にスカートのポケットに入れている事に気付く。
レイラは顔を上げると、ポケットに入れていた手を引き抜いた。

『……これ。本当はないしょで、リリカお姉さまにプレゼントしたかったの』

そう言って彼女は握っていた手を開く。そこには、小さな花の種がいくつか。

『これを育てれば、お姉さまといっしょに、お家でもきれいなお花が見られると思ったの。だから……』

リリカがその花畑に咲いていた花が好きな事を、レイラは知っていた。
その花が家でも見られれば、きっとリリカは喜ぶ―――ただ、そう思っての行動。
こんな遅くまで出歩いたら、両親や姉に叱られるのは目に見えている。特にルナサの説教が恐ろしい事を、妹達は身を持って知っていた。
しかし、それにも構わずに、道に迷ってまで種を取りに行って来たレイラ。
途端に嬉しくなったリリカは笑顔を見せると、レイラの小さな手に載せられた種を指で摘み取り、大事にポケットへしまった。

『ありがとう、レイラ。すごくうれしいよ。一緒に育てよっか』

『うん!』

ようやく笑顔を見せたレイラの手を引き、リリカは夜道を迷い無く歩いていく。
雲に隠れていた月もその姿を見せ、真っ暗だった夜道を少しだけ照らしてくれた。

「……あっ」

目を開けると、毎日最初に見る景色―――自室の天井が広がっている。

「あれ、レイラ……?」

ベッドから半身を起こし、今しがたまで横にいた筈の妹の姿を探す。
それから一拍置いて、リリカはようやく今まで夢を見ていたという事を理解した。

「……夢、か」

レイラと並んで歩いてる時がどうしようも無く幸せだったので、夢だと分かると少し残念な気持ちになる。

(懐かしいなぁ。もう何年前になるんだろう)

今見た夢は、自身の過去の記憶。リリカ・プリズムリバーという存在が、まだ人間の少女だけだった頃だ。
リリカは、今見た夢の続きも鮮明に思い出していた。

(家に帰ったらレイラがすごく怒られて……私は、泣きながらそれをかばったっけ)

父親、母親、ルナサの三人から同時に説教を受けるレイラを、彼女は自分の為に遠くまで行ったのだから自分の責任だと主張を続けたリリカ。
最後には怒られていた筈のレイラよりも大泣きするリリカを見て、三人とも苦笑いでレイラを許していた。

(……あのお花畑、どうなったのかな……)

レイラと一緒に行った大きな花畑。あれは外の世界の場所だから、もう行く事は叶わない。
今でもあるのだろうか。今でも季節が巡る度に違った花を一面に咲かせて、誰かの目を楽しませているのだろうか。
そうであって欲しい、とリリカは強く願う。

―――コン、コン。

不意に、穏やかなノックの音が響いた。

「は〜い」

身を乗り出す体勢を戻し、ドアに向き直るリリカ。
ドアを開け、顔を覗かせたのはメルランだった。

「リリカ、具合はどう?」

「ん……大丈夫、だと思う。多分」

「ならいいんだけど……昨日の夜、ご飯持ってった時も起きなかったから」

「あ」

言われて、リリカは今が朝だという事に気付いた。昨日の昼間からずっと寝ていたようだ。

「ごめん。なんか心配かけたみたいで……」

「いいよ、そんなの。それよりリリカ自身を気遣ってよ」

謝るリリカにメルランは首を振ったが、彼女の目の下にははっきりと隈が出来ている。妹が心配で殆ど寝ていないのは明白だった。
その時、ドアの影から首だけを覗かせていたメルランの頭の上に、もう一つ頭が出現する。

「リリカ、大丈夫?」

無論、ルナサだった。

「大丈夫だよ、二人とも心配性だなぁ」

「心配もするわよ。あんなうなされようを見ちゃったら、ね」

ルナサの目の下にも隈が出来ているのを見て、リリカは申し訳無い気持ちになる。

「二人とも、ごめんね」

「あなたが謝る事じゃない。落ち着いたら、何があったのか聞かせてくれる?無理にとは言わないけど」

「……うん」

「じゃ、私朝ご飯作ってくるね」

尚も心配してくれるルナサと、ようやく笑顔を見せて廊下へ消えていくメルラン。
それを見て、リリカは何だか気持ちが少し明るくなった。

(そうだ、私には姉さんがいるんだ……)

二人の姉の存在と、騒霊としてこの二人も一緒に生んでくれたレイラに、リリカは感謝した。勿論、声には出さないで。

朝食後、居間のソファで向かい合ったリリカと姉二人。
いつまでも溜め込んでもしょうがない―――そう判断し、リリカは全てを告白する決意を固めた。

「ちょっと、長くなるけど……」

「分かってる。好きなだけ話してごらんなさい」

ルナサに促され、リリカはこれまでの事を洗いざらい話して聞かせた。
夢にレイラが出てきた事。似た夢を何度も見た事。最後に『寂しい』という言葉を残して、レイラは消えてしまった事。そして今朝、昔の夢を見た事。
ルナサもメルランも、彼女の話を一切邪魔せずに聞いてやる。時計の針ばかりがみるみる進んでいった。
一時間以上かけてようやく話し終えたリリカ。最後まで口を挟まずに聞いていたルナサは、ほう、とため息をつく。

「……そうだったの。もっと早く話してくれれば、相談にも乗ってあげられたのだけれど」

「だって……」

心配そうな目を向けるルナサに、リリカは口ごもってしまう。
その様子を見て、メルランが『まあまあ』と割って入った。

「話し辛かったのはよくわかるよ、レイラの事は。昔に色々あったし……特にリリカにとっては、さ」

助け舟を出すかのようなその言葉に小さく頷くリリカ。ルナサは少し考えてから、口を開く。

「……それもそうよね。あなたからレイラの名前を聞くのも、どれくらいぶりか分からないし」

レイラの名前を口に出す事を、彼女が意図的に避けていたというのはルナサにも分かっていた。

「……それについては、もう吹っ切れたっていうかなんていうか。大声で叫んじゃったし、もう話しちゃえ〜、みたいな」

無理に笑顔を作ってそう言うリリカに、ルナサは内心唇を噛む。あまり、無理をさせたくなかった。
本当はこうやって話させる事自体がリリカにとっては負担になっていそうなものなのに、迂闊な事を言ってしまったと後悔した。

「……ごめんなさい。辛い事を思い出させたみたい」

「そんなの。夢を見てた時からずっとそんな感じだから今更いいよ」

「でも……」

首を振るリリカにまだ何か言おうとして、ルナサは何も言う事が出来なかった。そのまま、開いた口をつぐむ。
もう、何を言っても今のリリカに対してはダメージにしか繋がらないと思ったからだ。

『リリカは多分……思い出したくないのよ。あの子のことを』

少し前、メルランに向けて言った己の台詞が蘇る。
そんな彼女をよそに、リリカは笑顔になると――― 否、もう一度笑顔を作ると―――ソファから立ち上がった。

「話したら、少しすっきりしたよ。二人ともありがとう」

「……なら、良かったけれど……」

すっきりしない表情のルナサ。妹に対して何もしてやれない己の無力さを責めているようにも見える。

「……話し足りない事とか、相談とかあったら、いつでも言ってね。何でもするから」

一方でメルランはあくまで気遣う姿勢を見せる。自分にしてやれるのはそのくらい、と判断したのだろうか。
二人に頷いてみせ、リリカは自室へと引き上げていった。残された二人は一旦顔を見合わせる。
それからルナサは力無く俯き、メルランは大きなため息を一つついた。
リリカが悩んでいるのは分かる。だが、それの解決法も、自分達に何が出来るのかも分からない。
もやもやとした雰囲気の漂うプリズムリバー邸は、騒霊屋敷とは思えぬほど静かだった。

―――見渡す限りの、オレンジ色。
西の空に沈み行く太陽が、一日の終わりが近付いている事を告げていた。

『メルラーン!リリカー!レイラー!もう帰るわよー!』

夕焼け空と同じ色に染まった草原へ向かって、ルナサは声を張った。

『はーい!』

同じ方向から三人分の返事が帰ってきたかと思うと、三人がこちらへ向かって駆けてくるのが見える。
息を切らせてルナサの前で立ち止まると、メルランはリリカに向かって胸を張る。

『次は、リリカから鬼ね!』

『どうしてよ、最後に鬼だったのはメル姉さんでしょ!?』

『姉さんが呼ぶ前に触ったじゃない!』

『その前にタッチし返したからそっちが鬼だよ!』

『なによ、リリカのばか!』

『メル姉さんのばかー!!』

鬼ごっこの決着を巡っての言い争い。ルナサはやれやれとため息をつき、レイラに尋ねた。

『で、どっちが最後だったの?』

公平なジャッジを期待しての発言だったが、レイラは首を傾げた。

『え、えっと……終わりごろには、メルランお姉さまもリリカお姉さまも、お互いの体をぺたぺた触りあってるだけみたいな感じだったから……』

零距離での鬼ごっこほど不毛なものは無い。ルナサはもう一度ため息をつくと、未だ言い争う両者の頭を軽くポカリとやって踵を返した。

『まったく、続きは家に帰ってからにしなさい。ほら、暗くなる前に帰るわよ』

『はぁ〜い……』

叩かれた頭を軽く押さえながら、二人はルナサについていく。その光景に思わず笑ってしまってから、レイラもそれに倣った。
四人が遊びに来ていたのは、屋敷から少し離れた場所にある広い草原。走り回るのに最適な場所だ。
屋敷へ向けて少し歩いた所で、リリカがレイラの顔を覗き込みながら言った。

『レイラ、疲れたでしょ。私がおんぶしてあげる』

『え、嬉しいけど……お姉さまも疲れてるんじゃ』

遠慮がちな様子のレイラ。するとメルランも歩きながら頷く。

『そうだよ。ちっこいリリカがおんぶなんてしたらへたっちゃわない?』

『メル姉さんうるさい!……いいから、ね?』

『……ありがとう、リリカお姉さま!』

メルランに突っ込みつつ、尚も誘うリリカにレイラは笑って頷いた。
リリカが屈むと、レイラは嬉しそうにその背に飛び乗る。首にしっかりと細い腕が回されたのを確認し、リリカは立ち上がった。

『大丈夫?重くない?』

リリカの背に揺られたレイラが尋ねると、

『全然重くないよ、大丈夫!』

明るい返事が返ってくる。その様子を並んで歩きつつ見ていたメルランは少し心配そうな顔をしている。
―――そして、彼女の不安は的中した。

『……リリカ、大丈夫?』

暫く歩いた所で、ルナサやメルランに比べて明らかに遅くなっているリリカの歩行スピード。

『だ、だいじょーぶ……』

軽くふらつきながらも歩を進めるリリカの声は、かなりの疲労が滲んでいる。
リリカ自身も全力で遊び回っていたし、体格の小さな彼女がおんぶして歩くというのは予想以上の重労働であった。
見かねたメルランは、リリカの背面に回ると腕を伸ばしてレイラをそっと抱き下ろす。

『ありゃ、寝ちゃってる。あれだけ遊べば疲れるよねぇ』

彼女の言う通り、レイラは既に穏やかな寝息を立てている。
メルランは、そんなレイラを抱えてルナサの下へ。

『んじゃ、こっからは姉さんがレイラをおんぶね』

『え、私?別にいいけれど』

屈んだルナサの背にレイラを乗せると、メルランは疲労困憊のリリカに背を向けて軽く屈んでみせる。

『ほら、早く。リリカは私がおんぶするよ』

『え……いいの?』

『いいからいいから。早くしないと夜になっちゃうぞ〜?』

戸惑うリリカをメルランは急かし、ようやくリリカはメルランの背に自身を預けた。

『ごめんね、二人とも。レイラだけじゃなく、私まで……』

『リリカだって疲れてたのに、よく頑張ったんじゃない?そのごほうびだと思ってさ』

申し訳無さそうなリリカに明るく返し、メルランはルナサと肩を並べて歩く。
最初は何かと話しかけてきたリリカだったが、いつの間にか静かになっていた。

『あれ、リリカも寝てるよ』

大分屋敷に近付いてきた所で、メルランは背のリリカが寝息を立てている事に気付いて苦笑い。
レイラを背負ったルナサも軽く肩を竦めた。

『もう、今度遊んで帰る時はこの二人におんぶしてもらおうかしら』

『本気で言ってる?』

『まさか。おんぶ役はいつだって私とメルランよ』

『そだね』

けらけらと笑い合ってから、二人は家路を急ぐ。
段々と濃紺が主張を始めた空に、一番星が瞬いた。

「……!」

こうして急に目覚めるのも、何度目だろうか。
ベッドから半身を起こしたまま、思わず辺りを見渡した。自分以外に誰もいない。いる筈も無い。
分かっていても、レイラの姿を探してしまう自分は、どこかおかしいのだろうか。
そんな事を考えるリリカは、そっと目を閉じてみる。瞼の裏に浮かぶ、夕焼けのオレンジ色。メルランの背中。長く伸びた影。
腕を回し、リリカは自分の背中に軽く触れてみる。この背に、レイラを乗せた。その温もりがまだ残っている気がした。
それを欠片ほども逃さぬよう、少し汗ばんだ背中を撫でた。そして腕を戻し、ため息。

(レイラ……)

ぎゅっ、とシーツを握り締める手に力が篭る。

(だから、忘れてたかったのに……)

レイラの事を考えるだけで。その姿を、声を、表情を、思い出すだけで。心の中で、その名を呟くだけで。
どうしようも無く、胸が痛くなる。ぎりぎりと心を締め付けられるような感覚に襲われる。

(……会いたい……レイラに、会いたい……)

自分のたった一人の妹。もう会う事が叶わないと分かっているからこそ、痛む心は余計にその姿を求める。
夢に出て来た時に、何故その姿をもっと目に焼き付けなかったのだろう。どうしてその身体に触れなかったのだろう。
自分の身体が動かなかった―――分かっている。でも、どうにかなったのではないか。そう考えてしまう。
不意に視界が滲み、ぼやける。慌ててリリカは思考をシャットアウトしようと試みたが、もう無理だった。
次々と脳裏に蘇る、在りし日のレイラとの思い出。自分が忘れたがっていた、何よりも大切な思い出。

「……会いたいよぉ……レイラ……」

声に出してしまった。その途端、何かのスイッチが入ったが如くに涙が溢れ出す。
それを拭おうともせず、リリカはただひたすらに唱える。
『レイラに会いたい』と。

―――半月程が経過した。
あれからリリカの夢に、レイラはその姿を見せなくなった。
正確には、あの見た事の無い場所でのレイラとの邂逅は無くなった。
その代わりにリリカは毎晩、在りし日の思い出を夢と言う形で見るようになった。
その夢の中ではリリカがいて、レイラもいて、時にはルナサやメルランもいる。全部、思い出せる。
今まで忘れようとしていた分の反動とでも言うかのように、毎晩懐かしい記憶を呼び覚まされるリリカ。
そして目覚めると、どうしようも無く胸が苦しくなるのだ。ただひたすらに、レイラに会いたくなる。
他の事を何も考えられなくなるくらいに、レイラの声を、姿を、温もりを求めてしまう。
会いたく無かった、忘れていたかった時に出てきたレイラは、会いたくなった途端に出てきてはくれなくなった。それが、余計に辛かった。
毎朝毎朝泣きながら目覚めて、誰かが様子を見に来るまでに必死にその悲しい表情を押し隠す。そんな毎日が続いた。
だがある日、今抱える悲しみや寂しさを隠し通すのがもう限界だったリリカは、姉二人に再び打ち明ける事にした。

「……やっぱり、まだ何かあったんだね」

その日、リリカに呼ばれて居間へやって来たメルランが開口一番にそう言うので、リリカは少し驚いた顔を見せる。

「……気付いてたの?」

「まぁ、ね。リリカ、起こしに行った時も異様に目をこすってるし、よく見ると涙の跡がちゃんと見えてた。おねーちゃんにはお見通しよ」

ふふん、と得意げなメルラン。リリカは必死で隠していたにも関わらずバレていた事が恥ずかしくて顔を赤くした。
しかし、少し疑問に思った事もあったので続けて尋ねる。

「じゃあ、なんで何も言わなかったの?」

するとメルランは下唇に人差し指を当てて軽く思案してから口を開いた。

「ん〜、自分で言い出すのを待ってた、みたいな。あるいは、いつまで我慢できるか見てたというか……」

「ひどい!メル姉さんのばか!」

何だか馬鹿にされた気がして、思わず声を荒げたリリカ。だが、メルランはニヤリと笑う。

「そうそう、そうやって元気な方がリリカらしくてよし。さ、早く話して楽になりなって」

笑顔を崩さないメルランを見て、リリカは全てを見透かされているような気がした。
この姉にはとても敵いそうに無い―――そう思うと同時に気恥ずかしさがこみ上げて、リリカは押し黙ってしまう。

「遅くなってごめんなさい。リリカ、始めてくれる?」

そこへ丁度ルナサもやって来たので、リリカは顔を上げた。

「―――うん。あのね……」

彼女は再び、包み隠さず全ての事を話して聞かせた。
今までの夢を見なくなった事。代わりに、昔の思い出を夢として見るようになった事。目覚めると、どうしようも無くレイラに会いたくなる事。
二人はやはり、余計な相槌を挟まずに最後まで聞いてやる。

「……で、今はもうレイラは出てきてくれなくなっちゃったワケだ」

「……そうなの」

メルランの言葉に頷き、リリカは頭を抱えた。

「……最後にあの夢を見た時、レイラは言ったの。『私のことが嫌いなの?』って。
 私は違うと言いたかったけど、何も言えなかった。レイラはそれを肯定ととったんだ。だからレイラはもう、私の事が……」

そこまで言いかけたリリカを、ルナサは手で制した。

「……本気でそう、思っているの?」

「だって、現にあれからレイラは私の所へ来てくれなくなったんだよ?私の事なんか……」

そこから先を言わせまいと、ルナサはもう一度リリカを手で、先程より鋭く制した。

「それ以上は無しよ、そんなはずは無い。私が保証する。それより、あなたはどうしたいの?」

ルナサのまっすぐな視線に射抜かれ、リリカはたじろいだ。

「どうしたい、って……」

「少なくとも、このままでいいなんて思ってはいない……違うかしら?」

確かにそうなのだ。このまま、過去の夢を見ては心を痛める生活が続いて欲しいとは思わなかった。
昔の体験を夢で見れる事、懐かしいあの頃に戻れる事自体は一向に構わない。だが、目覚める度に泣きそうになっていては身が持たない。
図星を突かれたリリカは小さく頷き、呟く。

「……でも、どうすればいいの?私は何をするべきなの?わかんないよ」

すると、メルランが手を上げた。

「簡単だよ。リリカが、レイラの所へ行けばいいんだ」

「行く、って……」

簡単に言うメルランに戸惑うリリカだったが、

「……決まってる。無縁塚の、レイラのお墓へ行くの」

「!?」

彼女のその一言で表情をさっと変えた。

「あ、会いに行けっていうの!?レイラに!?」

「そうでしょ?何か間違った事言ったかな」

首を傾げるメルランに、リリカは激しく首を横へ振った。

「だ、だって!私はずっとずっと、レイラのお墓へ行く事を拒み続けてきたんだよ!?それどころか、あまつさえレイラの事を完全に忘れ去ろうとさえした!」

そのまま一気に捲し立てて、最後にがっくりとうなだれてから呟いた。

「……そんな私が行ったところで、きっとレイラは会ってくれない。今更合わせる顔がないよ……」

「どうしてそう言えるの?じゃあ、今まで夢に出てきたレイラはどう説明する?」

彼女の悲観的な言葉を否定するつもりで、ルナサは問うた。だが、リリカは少しだけ顔を上げて言った。

「今までの夢だって、レイラが会いに来てくれたとは限らない。ただ、そういう夢を見たってだけなのかも知れない。
 本当はレイラに会いたがっていた私が見た、ただの夢。その方がずっと自然だよ」

「で、でも……」

「第一、姉さん達がお墓参りに行った時も、レイラが姿を見せてくれたわけじゃないんでしょ?
 レイラはもういないのに、どうやってお話するのさ。考えてみれば、そこからおかしいんだ」

「………」

今までの相談事、そして数分前の己の発言すらも根底から崩すリリカの発言に、ルナサもメルランも何も言い返せなかった。
確かに彼女の言う通りかも知れない。あれがただの夢で、全ては憶測に過ぎなかった。
だが、これまでのリリカの様子を見ていると、とてもそうは思えないのだ。本人がそう言っても、簡単には納得出来ない。

「……今見てる夢も、その内収まるよ。たくさん喋ったら、大分楽になった。ありがとね、姉さん達」

黙ってしまった二人にリリカはそう言うと、足早に廊下へ消えてしまった。
それを追おうとしたメルランを制し、ルナサは天井を仰ぐ。

「……重症ね」

メルランもそれに頷いた。

「……うん。最後らへんのやつ、あれは絶対、心からそう思ってない。無理矢理そう思い込んでるんだ」

ルナサが小さく頷いたのを見て、メルランは続ける。

「あれは全部夢で、レイラが会いに来たなんてのは全部幻。その方が説明しやすいし、さっさと片付けてまた忘れたいんだ。
 本心はきっと、その前の『合わせる顔がない』ってトコ。レイラにもう一度どこかで会えたとしても、レイラが笑って接してくれるか不安なんだ」

「そう。いくら思い出す事が辛いとは言え、今まで一度も墓参りに行かず、それどころか忘れ去ろうとさえした姉を、レイラが許してくれるかどうか。
 もし、レイラが自分の事を嫌ってしまっていたら。それが怖いのよ。
 大好きな、ずっと守ってきた、自分の生き甲斐でさえあった妹に嫌われたとしたら、あの子はもう立ち直れないでしょうね。
 だから、それを確かめようとせずに再び忘れようとしている。少なくとも、これまで通りの生活には戻る」

後を引き取ったルナサの言葉にもう一度頷いて、メルランはため息と共に口を開いた。

「忘れかけた思い出を一度思い出してしまったから、次に忘れるにはどれくらいかかるのかな」

「………」

「その思い出が、自分にとってかけがえの無いものだったとしたら……」

その言葉に何も言えず、ルナサは黙って首を横に振った。
それから彼女は、窓の外―――無縁塚の方向を見やる。

(今、あなたはこの様子を見ているの?レイラ……)

その答えが返って来やしないかと、ルナサは少しだけ待ってみる。
だが、聞こえてくるのは自分自身と、隣に座るメルランの息遣いだけだった。


『お姉さま、お姉さま!』


『ん〜……レイラ、どうしたのこんな朝早くに。まだ眠いよぉ』


『昨日約束したでしょ、お姉さま!一緒にお花の種植えようって』


『あ、そっかそっか。じゃあ早速外に……』


『待って、お姉さま。ここでいいよ』


『へ?ここって、私の部屋……』


『いいからいいから……んしょ、っと』


『窓開けるなら私がやるって……よい、しょ』


『お姉さまもちょっと大変そうだね』


『レイラよりはおっきいもん!そんな事より、窓を開けて何する気?』


『えへへ……こっからね、それっ!』


『あっ、種まいちゃった……どうしてこんな所に』


『だって、リリカお姉さまはこのお花が好きだって知ってるもの。ここに植えればお姉さま、いつでもお花が見れるでしょ?』


『そっかぁ……椅子使えば、窓の下も見れるものね。ありがとう、レイラ。大切に育てるからね』


『芽が出たら教えてね、お姉さま!』


『もちろん!一緒に花が咲くところ、見ようね!』


「―――!!」

声が妙によく聞こえた夢から覚めて、リリカは跳ね起きた。
目覚めたばかりの脳を少しずつ回転させ、夢で見た光景を少しずつ具現化していく。

(……花の種……レイラがとってきてくれた……)

「……あっ!!」

唐突に思い出し、リリカはベッドから飛び降りると窓を開けた。
窓の下には、色とりどりの花が並ぶ小さな花畑。

(そうだ。レイラが、私がいつでもこの花を見れるようにって……)

リリカの自室の窓の下にだけ、何故こんなにも花が咲いているのか――― やっと、彼女は思い出したのだ。

(毎日毎日椅子に乗って、この窓から水をあげて……芽が出たとき、一緒に喜んだ。そうだった……)

あの時撒いた種から咲いた花。その名残が、今リリカの自室の窓から見える小さな花畑。
幻想郷に移った時も、屋敷の敷地内だったから一緒に来れたのだろう。
リリカは途端に泣きそうになる。レイラの名残が、こんな所にもあったのだ。

(どうして、私はそんな大事な事を……)

忘れていたんだろう、と続けようとして、愕然とした。
―――忘れてしまっていたんじゃない。自分で、忘れたのだ。
夢に出てきた少女。それがレイラだって分かっていた。なのに、自分に知らない少女だと言い聞かせた。頑ななまでにレイラでは無い、と否定した。
それと同じだった。自分で封印していた、大切な思い出達。

(……私は……)

今まで見てきた過去の夢。そして、今朝の夢。
レイラが自分の為に取ってきてくれた花の種。そこから咲いた花は、何十年、何百年と経った今も、この窓の下で同じ姿を見せてくれている。
それはまるで、レイラが姿を変えて自分をずっとずっと見守ってくれていたかのように思えた。

(こんなに素敵な思い出まで忘れていたなんて……何を考えていたんだろう……)

いくら自分自身が辛いからって。思い出す度にどうしようもなく泣きたくなって、何事も手につかないからって。

(一番大切な事を、私は忘れるところだった!)

次の瞬間、リリカの足は床を離れ、窓枠に乗っていた。
そのまま窓を乗り越えると宙に浮き、地面へ手を伸ばす。
結構な数が生えている花の内いくつか綺麗なものを摘み取ると再び窓から部屋へ戻り、大急ぎで普段の服へ着替える。
被った帽子が少しズレている事も気にせず、リリカは今しがた摘み取った数輪の花とキーボードを引っ掴むと、部屋のドアを開けて廊下へ。
幸い誰もいない居間を通り抜け、リリカは大急ぎで玄関から朝日の眩しい外へ飛び出した。

空を飛べる事も忘れて、リリカは未だ朝の匂いを残す道を駆ける。
その手に優しく、だがしっかりと握り締めた、レイラと一緒に植えたその名残の花を落とさぬよう。
ひたすらに走って、走って、走って、魔法の森へ入っても止まる事無く走って、迷う事無く森の道を駆け抜ける。
どれぐらいぶりか分からないのに、その道順を彼女は完璧に思い出していた。
とうとう森を抜け、彼女は一度立ち止まる。
目の前に広がるのは、一見無造作に立ち並ぶようにも見える、数々の墓。

――― 無縁塚。

リリカはゆっくりと呼吸を整えながら歩いた。最後に来たあの時よりも、墓の数は恐ろしく増えている。
だが、詳しい場所も完全に分かっている。思い出したのか、忘れていなかったのか、それは分からないが。
無縁塚の一番奥に、それはある。

(……あった……)

最期の別れをしたあの日から変わらぬ佇まいで、それは建っていた。
形こそ変わらないが、長い時を経たその石は所々風化が進んでおり、記憶の中のそれよりも大分古びている。
それでも、決して消える事の無いよう、確かにその者が存在していた証を残すかのように、しっかりと刻まれた文字。


”レイラ・プリズムリバー”


「……レイラ……」

呟き、リリカはその墓へ近付く。
上から下まで墓石を眺めてから、口を開いた。

「これ、レイラと一緒に育てたあの花だよ。今でも私の部屋の窓の下で元気に咲いてる。数も沢山増えて、とってもにぎやかだよ」

それからそっと、自室の窓の下で摘んで来た花を供える。

「ごめんね、レイラ。今まで一度も来なくて」

目の前の石の下には、レイラの身体が埋まっている。彼女が語りかける先はその身体か、目の前の墓石か、はたまた。

「ずっと、ずっと、待っててくれたのに。寂しかったよね。私、最低なお姉ちゃんだよね……」

語りを続けるリリカの声が、震えを帯びる。

「私、レイラに嫌われてもしょうがないって思ってる。でも、これだけは言わなきゃって気付いたの」

一度深呼吸。それから、リリカは顔を上げて言った。

 

「レイラ、私の妹でいてくれてありがとう」

 

紡いだその言葉は、一滴の涙と共に無縁塚の大地へ吸い込まれていく。
思い出す度にどうしようも無いほど胸が苦しくなるのも、涙が溢れて止まらなくなるのも。
全ては、レイラと過ごしたあの日々が掛け替えの無いものである事の証。
本当に大切な事。レイラが妹でいてくれたという事実。例えどんなに苦しくとも、それを忘れてしまったら、リリカはリリカじゃない。
輝かしい思い出をくれた、そして何よりも大事な家族で―――自分のたった一人の妹でいてくれたレイラに、感謝を。
そのまま彼女はそっと膝をつき、その冷たい墓石に身を寄せる。そうする事で、レイラからの声が聞こえはしないかと思った。

「レイラ……」

―――その呟き声を最後に、無縁塚は再び静けさを取り戻す。

 


―――風が、吹いた。

 


風に乗って、微かな甘い香り。
墓場では無い、明らかに違う空気の中に、リリカは立っていた。
たった今まで無縁塚に居た筈の自分が、何故こんな場所にいるのだろう。
そう考えようとして、気付く。

(ここ、夢の中の場所!)

レイラに何度も呼びかけられた、あの場所だった。
しかし、あの時と明確に違うのは、今は景色がはっきりと見える事。穏やかな日差しが差し込む、自然な明るさ。
そしてリリカは、足元を覆っていた植物が、色とりどりの花である事に初めて気付いた。
見渡してみれば、まるで絨毯のように敷き詰められた一面の花畑。秋らしからぬ、ぽかぽかと暖かい陽気。
目を凝らして見てみると、咲いているのはタンポポにアイリス、アネモネ、チューリップやフリージア等どれも春に咲く花だ。少し離れた場所に立つ木は見事な桜。
遥か遠くの空に浮かぶ綿雲や、景色として溶け込んだどこか遠くの山々。
まるで、御伽噺に聞く”天空の花の都”のようなこの光景の中で、リリカは呆然と立ち尽くす。
それは、いつの間にか夢で見た場所に再び現れたから、という理由だけでは無かった。


(この場所、どっかで見た事あると思ったら……あのお花畑だ……)


周りが見えるようになって初めて気付く、己の記憶にある懐かしい場所。
レイラと何度か足を運んだ、二人だけの秘密の場所。もう二度と行く事は叶わないと思っていた、思い出の場所。
それに気付いたその瞬間、聞こえた。


「―――おねえさま……」


あの声。しかし、同じ声の筈なのに、夢の中で聞いた声とは明らかに異なる。
どこか遠くから聞こえてくるような、まるで山彦のような声じゃなくて。
はっきりと、リリカ自身の聴覚がそれを聞き取った。まるですぐ傍で呼んでいるような―――

 

「リリカお姉さま!!」

 

その時、本当に、傍で声が聞こえた。
リリカの眼前に、いつからいたのだろうか、一人の少女が立っていた。
すっかり明るくなった光景は、目の前まで来ずとも、その少女の表情をはっきりと見せてくれる。
リリカの記憶の中で、一番輝きを纏っていた頃の思い出のままの姿で、立っていた。
反射的に、口が開いた。

 

「―――レイラ!!」

 

またこの名前を、直接呼ぶ事が出来る日が来ようとは、夢にも思わなかった。
今までの夢では出なかった筈の声が出る事に驚く事も忘れ、リリカは駆け出した。
触れようとしたら、また陽炎のように掻き消えてしまうのではないか―――ほんの一瞬だけ抱いたそんな不安を無理矢理ねじ伏せて、レイラの元へ。
すぐ目の前まで迫ったレイラの顔は、確かに笑っていた。

「レイラ!!」

確かめるようにもう一度その名前を呼び、リリカは走ってきたそのままの勢いで、レイラの小さな身体を抱き締める。
確かに実体のある感触が、レイラが消えてしまわずに、自分の腕の中にいる事を証明している。
温かかった。

「……お姉さま……」

胸の中で、聞き間違う筈も無いレイラの、少しくぐもった声が聞こえてくる。
紛れも無い、自分の妹。大好きな妹。もう会えないと思っていた。
それが、確かにここにいる。触れる事が出来る。抱き締める事が、温もりを感じる事が出来る。
それだけで、もう十分だった。

「レイラ……ほんとに、レイラなのね……?」

まだ信じられずリリカが呟くと、その薄い胸に顔を埋めたままレイラは答える。

「ひどいわ、お姉さま。ルナサお姉さまやメルランお姉さまには見えないでしょ?」

「えっ」

少し驚いたリリカは、抱き締めていたレイラの身体を離す。記憶の中では、自分の妹はこんな感じの皮肉な物言いをしている所を見た事が無かった。
だがレイラは、少しはにかんだ笑顔になって舌を出した。

「……えへへ、リリカお姉さまのマネだよ。いっつもこんな感じでしゃべってたの、ちゃんと覚えてるの」

言われてみれば、己のちょっと皮肉を含んだ物言いは昔からだったかも知れない。
何だか目の前ではにかむ妹がますます愛おしくなって、リリカは先程よりもきつくその身体を抱き締める。
突然の事で目を丸くしたレイラだったが、やがてうっとりと目を閉じる。
暫くそうしていた後で、再びレイラが口を開いた。

「お姉さま、ちょっと苦しいよ」

「だって、あなたをこうやってもう一度抱き締められるなんて思わなかったから」

「わたしも、もう一度リリカお姉さまにぎゅっとしてもらえて嬉しい。あの嵐の日や、約束してくれた日みたいに。
 けど、このままじゃお話もできないわ」

「このまますればいいよ」

「すてきなアイデアだけど、あったかくて気持ちよくて、それどころじゃなくなっちゃう」

そこまで言われて、リリカは名残惜しそうにレイラを離した。

「あそこで座って、お話しましょ?リリカお姉さまとお話したいこと、たっくさんあるの」

言いながらレイラが指差したのは、これもいつからあったのだろう、古びた一脚のベンチ。
もしかしたらこれも、思い出の中にある花畑に置いてあった物かも知れない。

「……そうね、私も同じ。レイラと話したいこと、訊きたいこと、山ほどあって、そろそろピッケルでもないと登るのが辛そうな高さよ」

冗談を含んだ物言いに、レイラはくすりと笑う。

「……変わってないね、お姉さま。嬉しいな」

その古びたベンチに小走りで寄り、先に腰を下ろしたレイラ。その隣にリリカも座る。
座った二人の間に開いた十センチほどの隙間を、レイラがリリカにぴったりと身を寄せるようにして埋めてから、彼女は口を開いた。

「……何から話そうか、お姉さま」

「そうね、まずは……どうして私の夢に出てきたのか、とか」

かねてよりの疑問をぶつけるリリカに、レイラは悪戯っ子のような笑みを浮かべて答えた。

「そんなの簡単。リリカお姉さまに会いに来てほしかったからよ」

「会いに来る、って……夢の中で会ったじゃない」

「んと……あれだと、わたし的には会ったことにならないと言うか……えっとね」

少しの間考えてから、レイラはリリカに向き直る。

「お姉さまの”夢”だけど、あれはわたしが呼びかけてたに過ぎないの。会いに来てほしいってことを何とかして伝えたかったから」

「それって……」

何か言いたげなリリカに頷いてみせ、レイラは続けた。

「わたしがお姉さまたちを騒霊として生んだ力の名残みたいなのか、それともわたしが亡霊みたいな状態だからできたのか、よく分からないんだけど。
 離れた場所にいるお姉さまに何とか気付いてほしくて、こっから呼びかけたの。それが、”夢”という形で現れたんだわ、きっと。
 遠くからだし、別の人の夢の中に無理矢理入ってるようなものだから、かなり力は弱まっちゃってたけど」

ここでリリカが、何かに気付いた様子で口を挟む。

「もしかして、夢の中では景色がはっきり見えなかったり、レイラがすぐに消えちゃったのは……」

「……うん。力が弱まってて、ちゃんとわたしの呼びかけを伝えきれてなかったんだと思う。
 ある程度慣れてきたら、少しずつ呼びかけられる時間も増えて、歩み寄れるくらいにはなったんだけど」

話を聞きながら、リリカは辺りを見渡してみる。
いつのまにか辺りの気温は上昇しており、少し暑いくらいだった。桜の木は青々と茂る広葉樹に変わっていて、さっきまで影も形も無かった筈のヒマワリがそこここで背伸びをしている。
見上げてみると、綿雲がいくつか浮かんでいる程度だった青空には大きな入道雲。
いつの間にか、辺りの景色は夏に変わっていた。

「……景色、変わったね。今度は夏だよ」

嬉しそうに笑うレイラ。だがリリカは、消化し切れていない疑問を抱えた状態だったので、この景色の変化を楽しむ程の余裕がまだ無かった。
むしろ、疑問が増えてしまったようにも感じる。

「……あの夢がレイラからの呼びかけ、ってのは分かったよ。今は私が直接会いに来たから、景色もレイラの姿もちゃんと見えてる、ってのも。
 だけど、あの夢の中で私は一歩も動けなかったし、声も全然出なかった。それはどうして?」

するとレイラは少し迷ったように視線を彷徨わせる。

「えっと、それはね……私からのアプローチだったから、なのかも」

「へ?」

リリカは首を傾げる。若干言い辛そうな様子だったが、レイラは再び口を開いた。

「その……”夢”という形だから、リリカお姉さまの意思に関係なく、私の呼びかけを伝えることはできた。
 けれど、お姉さま自身がどう受け取るかはまた別なの。完全な意思疎通というか、呼びかけに答えるつもりがあったのなら、きっとお姉さまもある程度動けたんじゃないかしら。
 だからね……あの、ね……」

そこまで聞いて、リリカは思い出していた。ひたすらにレイラの事を忘れ去ろうとしていた、昨日までの自分を。
夢に出てきた少女、あれがレイラだと気付いていながら、それを認めなかった。

「……私が、夢に出てきたレイラを、レイラだと認めなかったから……」

彼女の言わんとする事が、リリカにも分かった。確かに、そう考えれば辻褄が合う。
最後に夢でレイラに会った時、最後の一瞬だけ動けたのはきっと、そこで初めて目の前の少女をレイラだと認めたからなのだろう。
そして、その時に聞こえた過去の自分自身の声。それはレイラの想いと、忘却の淵から蘇り、解き放たれた己の思い出が共鳴したからなのかも知れない。
リリカの疑問は解けた。だが―――

「……え?えっと、多分、そうなんじゃないかな、って思うの……お姉さま……その……」

レイラは言葉に詰まってしまった。目の前のリリカが唇を噛みしめ、今にも泣き出しそうな表情をしていたからだ。
震える口先で、言葉を紡ぐ。

「……ごめんね。私、理由はどうあれ、レイラの事を……忘れようとしてたの。
 だから、夢に出てきたのがレイラだって分かっても、自分に言い聞かせた。あれは、レイラじゃないって。
 レイラだって認めた後も、会いに行かなかった理由はそこにあるの。わ、私……わたし、ね……」

「お、お姉さま……」

ぽろり、ぽろりと涙をこぼす姉の姿に動揺を隠せないレイラだったが、リリカは尚も続ける。

「ゆ、夢の、なかで……レイラが、私のことを、きっ、きらいになったのってきかれた時……答えたくても、答えられなく、て……」

「お姉さま」

「ほ、ほんとに……レイラが、わ、わたしのこと、きらいに、なったんじゃ、ないかって……」

「お姉さま!!」

聞いた事も無い程の強い語調で急に迫られ、幼い子供のように泣きじゃくっていたリリカも驚いて硬直する。

「……そんなこと言わないで。わたしがリリカお姉さまを嫌いになるなんて、ありえないよ。お姉さまを嫌えば生き返れるって聞いたとしても、絶対にいや」

「……レイラ……」

レイラの真剣な、それでいて優しい視線にまっすぐ射抜かれて、リリカは何も言えなくなってしまった。
それからレイラは柔らかく笑いかけてみせる。

「何があったのか、わたしに教えて。今度は、お姉さまがお話しする番」

「……うん」

リリカは袖で涙を拭い去り、二度、三度の瞬き。クリアになった視界の向こうでは、確かにレイラが笑っている。

「……レイラがいなくなった直後くらいは、私もまだ時々、レイラの事を考えたりもしてた。というより、気付けば勝手に考えてた、かな」

語り始めたリリカの言葉を、レイラは黙って聞いている。

「けどね、私の中で、あなたの存在はあまりに大きくなりすぎてた。あなたのいない生活なんて考えられなかった。
 いつもずっと私の後ろにいて、私が守るべき存在だった、たった一人の妹であるあなたを、私は忘れられなかった。
 レイラの事を少しでも考えると、胸が苦しくてしょうがない。会いたくてたまらない。何もかも投げ出してでも、レイラの顔が見たい。
 触れたい。声が聞きたい。また『お姉さま』って呼んで欲しい。一緒に遊びに行って、くたくたになるまで走り回って、遅くに帰って一緒に怒られて。
 あるいは、姉さん達と一緒の騒がしい演奏に、あなたがささやかな拍手を贈ってくれる。
 そういう、当たり前だったはずの毎日を……レイラと一緒だったあの日々を、求めてしまう。そんな感じだったの」

俯き加減になって独白を続けるリリカの姿は、果たしてレイラの目にはどう映るのだろう。

「レイラを連想するキーワードがちらりと心の隅に浮かんだだけで泣き出す私を、ルナ姉さんもメル姉さんもすごく心配してた。
 私は一切口には出さなかったけど、きっと気付いてたんだろうね。私が、レイラの事で泣いてるって。
 本当は自分達だって泣きたいのに、それをこらえて私を励ましてくれる姉さん達に、申し訳なかったって今でも思う。
 それでも、一々泣いてたら体が持たないし、毎日毎日心が締め付けられて、びりびりに破かれるような、あんなに苦しい思いをし続けるのは耐えられなかった」

そこで一旦言葉を切ったリリカは面を上げると、レイラの顔を見やる。それから、悲しそうに目を伏せた。

「……だから、私はレイラを忘れる事にしたの」

その言葉を聞いた瞬間のレイラの表情を、リリカは直視する事が出来なくて、俯いたまま尚も続ける。

「レイラがいなければ、私が今こうしている事もないし、姉さん達はもちろん、レイラにだってもう一度会う事はできなかった。
 それが分かってたはずなのに、私はレイラを忘却の彼方へ置き去ろうとしたんだ。いなかったと思おうと」

リリカの肩が、震えを帯びる。

「……どれだけひどい事か、分かってるよ。姉として、家族として最低だって。レイラに嫌われたって、当たり前だって……」

――― その時だった。膝の上で固く握られていたリリカの手に、ふわりと温かい感触。
気付いたリリカが見ると、自分の手にレイラがその小さな手をそっと重ねていた。

「……レイラ?」

リリカがレイラの顔を見ると、彼女はやはり、笑っていた。

「……ありがとう、お姉さま。あのね、わたし……とっても嬉しいの」

その言葉にリリカは驚いて、思わず声を上げてしまう。

「えっ!?う、嬉しいって……どうして!?わ、私は、あなたを忘れようと……」

「うん。でもそれって、わたしのことが好きで、忘れられなかったからなんでしょう?」

率直な質問だったが、その通りだった。
こくりと頷くリリカを見て、レイラはますます嬉しそうに笑うと、甘えるようにリリカの腕にしがみつく。

「だからなの。わたしの大好きなリリカお姉さまが、わたしのことも好きでいてくれたんだ、って」

「!!」

その言葉が一瞬信じられなくて、リリカはレイラの顔を見た。彼女はさも当然の事を言った、とでも言いたげにリリカの腕に頬をよせる。
嘘偽りの無いその眼差しを見ているだけで、リリカの心の中で凝り固まっていた”何か”が、まるで名残雪のように融けていく。
クリアになったばかりの視界が、再び滲んだ。

「……レ、レイラぁ……」

「もう、お姉さまったら。しばらく生きてる間にちょっと涙もろくなった?」

目一杯に涙を溜めて声を震わせるリリカに、レイラは笑顔を崩さぬまま悪戯っぽく言ってみせる。
それから暫く、彼女は必死に涙を堪えるリリカの顔を見つめていたが、不意に口を開いた。

「……ほんとうはね、わたしもちょっと怖かったの。いくら呼びかけてもお姉さまは何も言ってくれないし、わたしの存在を跳ね除けようともしていたようにも感じたから。
 それでわたしがお姉さまを嫌いになるなんてことはないけれど、ひょっとしたらわたしはお姉さまに嫌われてるんじゃ、って思い始めちゃって。
 呼びかけにも慣れたから思い切って近付いてみても、おんなじだったから……それで、思ったの。お姉さまは、本当にわたしに会いたくないんだって。
 正直、ショックだった。それ以来すっかり怖くなって、お姉さまへの呼びかけをやめちゃったんだけど……まさか今日、お姉さまが来てくれるなんて。
 すごくびっくりしたし……とっても、とっても嬉しかったの」

「……!」

語るレイラの顔を見て、リリカは過去の自分自身を思いっきりキーボードの角で殴りつけたい衝動に駆られた。
こんなにも姉である自分を想ってくれていたレイラを悲しませた、過去の自分が憎らしくてしょうがない。
レイラを守る為に、レイラの笑顔を誰よりも傍で見る為に生まれてきたとさえ思っていたリリカ。
たった一人の妹を悲しませる者は、例え自分自身であろうと許せなかった。

「……本当に、ごめんね。でも、私も嬉しい。レイラがまだ、私をお姉ちゃんだって思ってくれてたなんて。
 私がレイラを嫌うなんて、幻想郷がぶっ飛んだってありえない。あなたは、私の大切な妹。ずっと、ずっと」

真剣に語りかけ、リリカはレイラの小さな手を握る。

「……ありがとう、お姉さま」

もう一度にっこりと笑い、レイラは言った。
二人がふと辺りを見渡せば、いつの間にやらヒマワリの代わりにコスモスやキキョウなんかがそこらで咲き誇り、頬を涼しい風が撫でていく。キンモクセイの木もあった。
桜だった筈の木は何故か綺麗な紅葉になっている。

「あれ、あの木……」

「桜だったよね、さっきは。ここ、わたしの思い出を頼りに作り上げた風景なんだ。だから、ちょっとくらいめちゃくちゃでも気にしないでくれると嬉しいな」

「ここって、私が連れてったお花畑……」

「うん。お屋敷でもよかったけど、お姉さまは毎日いるんだし、飽きちゃってるかなって。
 それ以外でお姉さまとお話するなら、ここしかないって思ったの。もう一度、二人でここに来たかった」

奇しくも、現実の季節と同じ光景になった思い出の風景を、二人は暫し眺めていた。
きっとあの場所は今もあって、目の前に広がっているのと同じ光景を、誰かの目に見せている。そうに決まってる。
リリカがレイラの顔を見ると、彼女も頷いた。

「なつかしいなぁ。お姉さまのお部屋の窓の下に植えた種、今も無事に咲いてるって分かってホッとしたよ」

「あれから毎年だよ。その花も種を残していくから、今じゃちょっとしたお花畑」

「そのままお屋敷中を埋め尽くしちゃえば、ちょっとした名所になるんじゃない?」

「私と姉さん達で十分騒がしいのに、これ以上賑やかになってもね」

それから二人は大きな声で笑い合う。まるで、今こうしていられる幸せを、全身で叫ぶかのように。
ひとしきり笑ってから、落ち着いたレイラが話を再開する。

「種で思い出したんだけどね。あの種を持って帰った日にお姉さま、怒られてるわたしのこと、かばってくれたよね。すごく嬉しかった」

「レイラが泣いてる姿なんて見たくなかったからね。あの時は必死だったさ」

「それ以外にも、お姉さまにはいつも助けてもらったり、守ってもらってた。その前の日だってお姉さまが迎えに来てくれたし。
 例えばお姉さま、階段をわたしと一緒に上る時は必ずわたしの後から上って、降りるときはわたしの前だったよね。
 あれって、わたしが足を踏み外しても受け止められるようにしてたんだよね……今更になっちゃうけど、ありがとう」

昔の事でお礼を言われるのは何だか照れくさい。リリカは顔を赤らめてぶんぶんと手を振ったが、レイラは尚も続けた。

「やだ、そんな……たまたまかもしれないのに」

「ううん、絶対にそう。お姉さまは優しいもの。他にもいつだっけ、遊びに行った帰りにわたしのことをおんぶしてくれたり……」

そこでリリカは唐突に、少し前に見た夢の内容を思い出した。

「あ、それ覚えてる。レイラが夢に出なくなって……というか、呼びかけがなくなってからは私、昔の思い出をたくさん夢で見たんだ。
 今まで忘れようと押し込めていた反動なのかもしれないけど……その中で、その時の事も夢で見た」

それを聞いたレイラは目を丸くする。

「ほんとうに?お姉さまの背中、あったかくて気持ちよくて……すぐ寝ちゃったのを覚えてるよ」

「あ〜……実は、あの後私もヘトヘトになっちゃって。見かねたメル姉さんが私をおんぶしてくれたんだ。レイラは途中からルナ姉さんが」

ばつが悪そうに頭をかきながら言うリリカだったが、レイラは全く気にしていない様子だった。

「そんなの、リリカお姉さまが最初におんぶしてくれたんだもの、関係ないわ。でも、ルナサお姉さまにもお礼言いたかったな」

「あの時は姉さん、レイラには内緒にしとけって言ってたからなぁ」

リリカがレイラにとって頼れる姉でいたかった、という事を知っていたからこそ、ルナサは内緒にさせていたんだろう。
離れた場所の花々に視線を走らせ、そんな事を考えていたリリカの肩を、レイラが軽くつついた。

「ねえ、お姉さま。ちょっとお願いがあるんだけれど……聞いてくれる?」

おずおずと言うレイラに、リリカは自らの胸をドンと叩いてみせる。

「もちろん!レイラのお願いを断るわけないでしょ。何でも言ってみて」

「ほんとに?ありがとう、お姉さま。あのね……」

リリカに笑顔でお礼を言い、レイラはそのまま自らの望む”お願い”を彼女へ告げた。

「……その時みたいに、わたしをもう一回……おんぶ、してほしいな」

「えっ?」

意外な発言に思わず聞き返してしまうリリカ。だが、レイラはちょっと恥ずかしそうにリリカを見つめているだけ。
慌てて彼女は頷いた。

「いいよ、レイラが満足するまでいくらでもおぶってあげる」

その言葉と共に彼女はベンチから立ち上がると、レイラに背を向けて軽く屈んでみせる。

「ほら、早く」

「あ、ありがとう……お姉さま!」

瞬時に顔を輝かせたレイラはリリカに駆け寄り、嬉しそうにその背へ飛びついた。

「んっ……と、レイラはやっぱ軽いね」

その瞬間、背中に伝わってくる確かな感触。それは、最後にレイラをおんぶしたあの日と変わらない温かさ。
夢から覚めた後も、背中を撫でてもう一度求めたその重みを、今まさに感じている。リリカはこの上なく幸せな気分だった。

「お姉さまの背中……やっぱり、あったかいな」

「ふふ、お姉ちゃんの背中に敵う乗り物なんてないのさ」

うっとりと呟くレイラに、リリカは自然と笑顔。
それは首筋にレイラの吐息が当たってくすぐったいからなのか、それとも今の幸せを顔に出さずにはいられなかったからだろうか。

「ほんとに、そう思う……お屋敷とか、お花畑とか、好きなところはいっぱいあるけど、やっぱりリリカお姉さまの背中の上が一番好きな場所」

「もう、そんなに褒められたらずっと乗せたくなっちゃうじゃない」

事実、そうしていたかった。ずっとは無理でも、出来るだけ長く、レイラの重みを感じていたい。
あんまり幸せな気分で浮かれたからか、心なしかレイラの体がさらに軽くなった気がした。これなら本当にずっと乗せていられるかも知れない。
だが―――

「お姉さま……わたしの最後のわがまま、聞いてくれてありがとう」

「そんなこ……え?」

レイラの今の言葉に含まれたそのキーワードに、リリカはレイラを背に乗せたまま、ビクリと肩を竦ませた。

「わたしね……最後の場所は、お姉さまの背中の上って決めてたんだ……」

「ちょ、レイラ……それって……」

気のせいでは無い事に気付いた。レイラの体が、どんどん軽くなっていく。
慌てて首を後ろに向けると―――認めたく無い事実がそこにはあった。
レイラの姿が、少しずつ、少しずつ透き通り、薄くなっていく。
これまでにも味わった事のある感覚―――別れ。一度目は、人間としての。二度目は、肉体との。そして、今度こそ―――

「ほら、よく言うでしょ?亡霊は未練を果たしたら成仏するって。それとおんなじかも。
 それとも、わたしの魔法がやっと解けるのかな?もちろん、お姉さまたちはそのまんまだけど、わたしの分が……」

「そんな……嘘でしょ!?嘘だって言ってよ!!」

とうとう背に乗せたレイラの体重は零になり、その身体がふわり、と宙に浮かぶ。
そのまま昇りゆこうとするレイラの手を、リリカはしっかりと掴んだ。

「リリカお姉さま……」

掴んだレイラの手は、確かに温かい。その感触をこの手から消してなるものかと、リリカは握る手に力を込めた。

「やだ!!せっかく会えたのに!!私はレイラが大好きで、レイラも私が好き!それをやっと確かめられたのに、もうお別れなんて絶対にやだっ!!
 もっとお話したいの!まだおんぶしたりないし、並んでこの景色を見ていたい!!
 ずっと、ずっとレイラの傍にいたい!!約束したのに!!ずっと一緒って!!もう嘘つきになりたくないよ!!」

何度も拭った筈の涙をまたしてもその目に浮かべ、リリカはただひたすらに叫ぶ。しかし、徐々にその姿を消してゆくレイラは、あくまで笑っていた。

「……ちがうよ、お姉さま」

「え?」

空に浮かぶレイラと、地面に立つリリカ。合わせ鏡のように、空と地の境目で向かい合う二人。そんな二人を繋いでいるのは、一本の細腕だけ。
レイラの身体を空へと引っ張る力がさらに強まり、リリカの手はもう幾許も彼女の身体を留めてはおけそうにない。

「生まれる前から、お姉さまはわたしのそばにいてくれた。それとおんなじで、わたしは姿が見えなくなったって、ずっとお姉さまのそばにいるよ。
 キーボードを上手に弾いたり、お花を大事に育てたり、イタズラしてルナサお姉さまに叱られたり。
 お料理の合間に本を読んでたら、いつの間にかお魚を焦がしちゃったり、メルランお姉さまとちょっとだけケンカした後にすぐ仲直りしたり。
 そんな、涙もろくて、ちょっぴり皮肉屋さんで、とっても優しい、世界で一番大好きなリリカお姉さまを、私はいつも見てるから」

「……レ、レイラ……」

その時、突風が巻き起こった。強い風がカラフルな花弁を舞い上げ、空へと運んでいく。
花弁の波に乗るかのように、もう殆ど空の色と同化してきているレイラの身体が、一際大きく浮かんだ。

「……もう、行かなきゃだね。お父さまやお母さま、人間のお姉さまたちに会えるかな?それとも、こっちは幻想郷だから無理なのかな……」


その笑顔に、寂しさの色が滲み―――とうとう、するりとその手が離れた。


「あっ―――」

虚空に取り残された己の指を一瞬凝視したリリカだったが、すぐに目の前の青空を仰ぐ。
数多の花弁と共に舞い上がっていく、最愛の妹の身体。もうほぼ輪郭しか見えないほどに透き通ってしまったその身体。
だが、確かにそこにいる。まだ、消えちゃいない。その証拠に、大きな大きな声が聞こえてくる。

 

「見てるから!!わたしは、リリカお姉さまをずっと見てるよ!!演奏も聴いてる!!どこにいたって聴こえるよ!!ぜったい!!」

 

レイラのその大声は、リリカの耳に確かに焼き付いた。
そして、どんどん舞い上がっていきつつも空に溶けていくレイラの姿は―――

「―――レイラ!!レイラッ!!」

 

 

 

ついに、見えなくなった。

 

 

 

微かな風が、土とカビの入り混じったような匂いを運んでくる。
気付けば、目の前には幾多もの墓石が並ぶ、たった今までいた場所からすれば大分不気味な光景が広がっていた。
ここは、無縁塚。

「……レイラ!?」

何度か確かめるように辺りを見渡す。レイラの姿や、見渡す限りの花畑は、影も形も見えない。
リリカは、レイラの墓に背を預けていた。いつの間にか眠っていたのだろうか。
分からないままにリリカは足に力を込め、墓に手を着いて立ち上がる。既に太陽は真上を少し通り過ぎていた。

「……私は……」

虚ろな目で、呆然と立ち並ぶ墓を見渡すリリカ。まるで夢を見ていたかのような感覚。
自分は、レイラに会えたのだろうか。それとも、単なる夢に過ぎないのか。分からない。
あの懐かしい景色の中で、レイラと昔の思い出を、思うがままの感情を、さよならの言葉を語らった。それは果たして現実なのか。分からない。
レイラが言ってくれた『世界で一番大好き』という言葉は真実だったのか。はたまた己の希望的観測が見せた夢か。分からない。
どこを見つめるでもなく、視線を彷徨わせて必死に答えを探すリリカ。
―――だがその時、リリカの脳裏に最後の光景が蘇る。

 

『見てるから!!わたしは、リリカお姉さまをずっと見てるよ!!』

 

『演奏も聴いてる!!どこにいたって聴こえるよ!!ぜったい!!』

 


(……そうだ!レイラは見てるんだ……私を!!)

 


虚ろだったリリカの目に、確かな光が戻った。
彼女は振り返り、妹の墓を見る。それから、遥か天空を仰いだ。
雲がいくつか浮かぶ、空。あの青空に、レイラは溶けていった。そして、どこかからきっと、自分を見ている。
そうに違いない。何故なら―――

(レイラがそう言ったもの!あの子は、絶対に嘘をつかない子だった!!)

リリカは確信していた。そして、傍らに置いてあった愛用のキーボードを拾い上げる。何かに使うかも、と思って持ってきたのだ。
もう、レイラに言葉は届かないかも知れない。肉声が届く範囲なんてたかが知れている。だが、最後にレイラは言った。


―――どこにいても、リリカの演奏を聴いている、と。


次の瞬間、ウォーミングアップもせずにリリカは演奏を始めた。
奏でる曲は勿論、『幽霊楽団 〜 Phantom Ensemble』。在りし日、レイラの前で、一番多く演奏した曲だ。
自分も、姉達も、そしてレイラも一番好きであろうこの曲が、レイラへのメッセージとして聴かせるのに一番だと思ったからだ。
流れるようなキーボードの音色は、まるで小川が激流へ変貌するかのように激しさを増してゆく。

(……届け)

本来ならヴァイオリンが入るパート。だが、今は彼女のソロ。普段では決して出さない程の大音量で二人分のイントロを奏でる。
それはルナサがいない分をカバーする為に、或いはレイラの為のソロライブであるが為に。

(……届け)

メインフレーズへ突入した。待ってましたと言わんばかりに飛び込んでくるメルランのトランペットも、この日は聴こえない。
だから、リリカは普段弾く伴奏と同時にメインフレーズを奏でる。トランペットの音色に負けないくらい大きく聴こえるように、ありったけの力を込めて。

(……届け!)

二度目のメインフレーズも、たった一人で三人分のメロディを弾き鳴らす。
客観的に見れば、最早指の動きを目で追う事は出来ない。だが、それに驚く観客はいない。
しかし、リリカは意に介さない。この孤独なソロライブの観客は、遥か大空の彼方にいる。

(……届け!届け!!)

サビフレーズ。主旋律は転調し、激しさと儚さを内包したフレーズとなって響き渡る。
一方で副旋律のヴァイオリンパートもリリカはその手で奏でている。人間の限界を超えた、騒霊だからこそ出来る芸当。
レイラから貰った能力を最大限に駆使しての、お返しとも言えるライブ。

(届け!届け!!届けッ!!)

その繊細な指が千切れてしまうくらいに、細腕を鍵盤に叩きつける。一層大きくなる音色は、墓場に埋まる亡骸ですら目を覚ましてしまう程のもの。
それでも彼女の演奏は、あくまで美しさを失わない。一番好きな曲を、今までで一番大きな音量で、どんな時よりも沢山の想いを込めて。

 

(―――レイラに……届けッ!!!)

 

リリカの、一人分を遥かに超えた激しいソロライブ。その音色は無縁塚をまとめて吹き飛ばすかのような勢いで膨れ上がり、飛び出していく。

森を抜けて。

草原を駆け抜け。

湖を飛び越えて。

どこかの屋敷の壁に叩きつけられても、決して減衰せず。

そのまま、遥かな大空へ。雲をも飲み込んで散らすかのような、音の洪水。

 

 

どこまでも響け。

結界すらも突き破れ。

外の世界にいるのなら、そこまで追いかけて轟かせてやる。

 

 


―――レイラに、届け。

 

 


気付けば辺りは静寂に包まれている。
頬を伝っていく汗を拭おうともせず、リリカは立ち尽くしていた。
先程までまるで分身しているかの如くに大暴れしていたその両腕は、今は宙に浮かせたキーボードの上でだらりと寝そべっている。
どれぐらい演奏していたのか、リリカは自分でも分からなかった。一時間か、二時間か、或いはもっとか。
全身全霊を懸けたソロライブの反動か、彼女はその場で微動だにせず、当て所無く視線を彷徨わせる。
ただ彼女の荒い息遣いだけが、静かな墓場の空気を震わせていた。

「………」

肩で息をしつつ、リリカは無言で目の前の墓を見やる。
―――果たして、自分の渾身のソロライブはレイラに届いたのだろうか。
どこへいても聴いている、と言ってくれた妹の、その心を動かす事は出来たのか。
分からない。猛烈な演奏の余韻と反動で、リリカの思考は凍結していた。
どうして良いか分からず、ただ呆然と立ち尽くし、目の前の墓をぼんやりと見つめる。
その時だった。

「あっ、リリカ!!姉さ〜ん!リリカがいたよ〜!!」

聞き慣れた、眩しさすら感じる程の明るい声が、リリカの耳に飛び込んできた。
ゆっくり振り返ると、一散に駆けて来るメルランの姿。彼女はすぐにリリカの前まで辿り着いた。

「はぁ、はぁ……やっと見つけた!いつの間にかどこにもいないんだから、私も姉さんもかなり探したんだよ!」

息を切らせながらメルラン。ふらりといなくなった事を咎めようとする口ぶりだが、その表情は明らかに安堵感が勝っている。
すぐに後ろからルナサもやって来た。こちらも彼女にしては珍しく、口を開いてもすぐには言葉が出ないほど息切れしている。

「……ふぅ。まったく、出かけるなら一声かけてからにしなさいといつも言ってるでしょう?
 私とメルランの二人でどれだけ探したと思っているのかしら。博麗神社、白玉楼、太陽の畑、人里、紅魔館……片手どころか両手でも足りないわ」

「普段行く場所にいないなら、絶対ここだって思ったんだ。そしたらビンゴ」

「最初からここに来るべきだったのかしらね」

肩を竦ませながらも、リリカを見つけて一安心といった様子の二人に、当のリリカは顔を伏せ、ぽつりと呟いた。

「……ごめんなさい」

リリカはとにかく謝らねば、と思った。いても立ってもいられず飛び出してきてしまったが、結果的に姉達にかなりの心配をかけてしまった、と。
しおらしく謝るリリカに少し意外そうな表情を浮かべたルナサとメルランだったが、二人で少し顔を見合わせてからルナサが口を開いた。

「まあ、反省しているみたいだし、最近は色々あったから不問。もう怒ってないから安心なさい。それと……」

「……それと?」

許してもらえた事を安堵する一方で、まだ何か言いたげなルナサにリリカは思わず顔を上げて聞き返した。
すると彼女は、微かな笑みを口の端に浮かべてみせ、一言。

「……レイラには、会えた?」

「……えっ!?」

驚き、リリカはルナサの目を見る。だが、彼女は尚も微笑んでいるだけで、それ以上言葉を発する気は無さそうだった。
続いてその隣のメルランを見るが、彼女もまた笑って、うんうんと頷いているだけ。何かを期待しているようにも見える。
リリカは一瞬だけ迷った表情を見せたが、すぐに、一つ息をついてからはっきりと頷いた。

「……うん。会えたよ……レイラに」

「そう、良かった」

敢えて多くは尋ねなかった。ルナサは笑みを崩さず、安心したように頷く。

「ねえ、レイラはなんて言ってた?」

「それは今度になさい。今はとりあえず、家に帰りましょう」

やはり興味があるのか尋ねようとするメルランを制し、ルナサは踵を返した。

「そだね。風も出てきたし……行こ、リリカ」

「うん……」

メルランの言う通り、やや強くなってきた風が辺りの木の葉を揺らし、ざわざわと音を立てている。
彼女はルナサについて行く様子だったが、リリカは生返事。
この短時間に沢山の事があり過ぎて、彼女の頭の中での処理が追いついていなかった。
レイラともう一度会い、語り、別れ、全身全霊を込めてのソロライブ。レイラに届いただろうか。
正直、レイラの返事を聞きたかった。自分のキーボードの音色が届いたのか。あの頃にも劣らない、素敵な演奏が出来たのか。
だが、いつまでもぼんやり考えていたら、探しに来てくれた二人にまた心配をかけてしまう。リリカも姉達に倣って無縁塚の入り口へ向かおうと踵を返しかけた。
だがその前にもう一度墓を見やる。見送ってはくれないかと、ある筈の無いレイラの姿を探しているようにも見えた。

「……レイラ。私の演奏、どうだったかな……」

そっと、小声で尋ねてみる。無論、答えは帰って来ない。
それから彼女はキーボードを脇に抱えると無言で今度こそ踵を返し、少し先を歩く二人の背を目指して歩き出した。
ゆっくりと歩を進め、段々とレイラの墓から離れてゆく、リリカの小さな背中。
まるでそれを追いかけるかのように、後ろから強い風が吹いてくる。ざわり、ざわりと木々が一層大きな音を立てて、


―――突然、リリカは歩みを止めた。


「……?リリカ、どうかした?」

ついて来ないリリカに疑念を感じたメルランが振り返って声を掛けてきたが、彼女は一切の反応を示さない。
それもその筈、彼女の全神経は聴覚に集中していた。
尚も変わらず風は吹き、木々の葉っぱが擦れ合って軽い音を立てている。それがたまたまそう聞こえただけだと思った。
しかし、段々とその”音”は、明確にリリカの耳へ届き始める。

―――ざわざわぱちり、ざわざわぱちり。

木の葉が擦れる音に混じり、何かを打ちつけるような、明らかに植物が立てるものでは無い音。
その感覚は、短くなっていく。

―――ぱちり、ぱちり。

その時、ドサリと鈍い音を立ててリリカの腕からキーボードが落下。湿っぽい土の上に投げ出された。

「ちょっと、落ち……」

言いかけて、ルナサは口をつぐんだ。小言を言えるような雰囲気では無かった。
愛用のキーボードを落っことしても気付かない程の何かを、リリカは感じ取っているのだ、と。
ルナサとメルランには聞こえていなかった。リリカだけに届けられるその小さな音は、少しずつ、少しずつはっきりとした物になっていく。
小刻みに聞こえる、小さな音。リリカは確信した。木が立てる音じゃない。気のせいじゃない。空耳じゃない。


―――ああ、これは、拍手の音だ。


それも、ただの拍手じゃない。この、小さくて優しい拍手の音。
在りし日、毎日のように聞いていた―――そして今何よりも欲しかった、レイラが贈ってくれるささやかな拍手の音だ。

「……レイラ……」

信じられなくて、リリカはキーボードを落とした事にも気付かずに耳を澄ませる。
それから、ゆっくりと今まで歩いてきた方向、レイラの墓の方を向いた。
当然ながら、レイラの姿は見えない。だが、その間にも確かな拍手の音がリリカの耳に聞こえる。
脳裏に浮かぶ、あの毎日。騒霊として新たに生まれた姉達と自分は、レイラの為に毎日毎日ライブを開いて。
飽きそうなものなのに、レイラはいつもいつも心の底から楽しそうな笑顔で、ささやかな拍手を贈ってくれた。
自らが老いても、ベッドからその身を動かせなくなろうとも、演奏の後は必ず拍手をしてくれたレイラ。
もう二度と聞けないと思っていたその拍手が、今、聞こえている。
たった一人の、大好きな妹が贈ってくれるその拍手を聞き間違う筈も無い。レイラはやはり、嘘をつかない。
何故レイラの拍手が聞こえるのか、その原理は分からない。だが、リリカの耳に確かに届いたのだ。


『どこにいたって聴こえるよ!!ぜったい!!』


―――もう、限界だった。

「レイラ……レイラ!!」

リリカは駆け出した。一散に走り、そのままの勢いでレイラの墓に取り縋る。まるで、レイラの身体を抱きしめるように。
いつの間にか溢れ出した涙がこぼれて、次々とねずみ色の墓石に染みを作っていく。
その間も、レイラの拍手は聞こえて来る。

「リリカ!!」

「どうしたの、大丈夫!?」

事情が飲み込めないままに、ルナサとメルランも墓の前まで戻って来た。
メルランが横にしゃがみ込んで、墓に取り縋ったまま肩を震わせて嗚咽を漏らすリリカの顔を覗き込む。

「どうしたの、レイラが何か……」

とりあえず事情を聞こうとしたメルランだったが、それは出来なかった。
リリカは墓から身体を離したが、

「レ、レイ……ううっ……うああああぁぁっ!!!」

メルランの顔を見るなり大声を上げて泣き出してしまった。
そんな妹を、メルランは困ったような笑いを浮かべて優しく抱き寄せる。

「お〜よしよし、泣くな泣くな。お姉ちゃんがついてるからね」

「……ね、ねえさ……ひっく、あのね、レイラが……レイラがぁ……うぅ、うあぁぁ……」

「だいじょぶ、分かってるよ」

完全に事情を飲み込んだ訳では無かったが、察する事は出来る。
メルランの胸に顔を埋めたまま声を上げて泣くリリカの頭を、そっと撫でてやる。こんな風に泣いている妹を宥めたのも、どれくらいぶりだろう。
ちょっと懐かしい気分になったメルランは、よしよし、と言いながらその小さな背をさすってみた。
安心したのか、リリカの泣く声はより大きくなった気がする。メルランは少しだけ困った顔をしつつも、リリカを抱きしめる力を少し強くした。
まだ明るい光の差す無縁塚に、まるで幼い子供のような、リリカの大きな大きな泣き声だけが響き渡る―――。

「……ふふ、泣き疲れて寝ちゃったよ、姉さん」

「みたいね」

空から差し込んで墓場を照らす光も、いつしか柔らかなオレンジ色。
散々泣き明かしていたリリカの泣く声は少しずつ小さくなり、すすり泣きになって、やがて静かになった。
とうとう穏やかな寝息まで聞こえ始めて、ルナサとメルランは思わず顔を見合わせて笑う。

「じゃ、そろそろ帰ろうか。もう夕方になっちゃったよ」

「そうね……それにしてもこの子、どれだけ泣いてたのかしら」

メルランは、ずっと抱きしめていたリリカの身体をそっと離す。ルナサがその横にしゃがみ込んでハンカチを取り出し、涙やら何やらでぐちゃぐちゃになったリリカの顔を優しく拭ってやる。
それから彼女は、オレンジと水色がグラデーションを描く空を見上げた。

「……リリカにはきっと聞こえたのね。レイラが伝えようとした、何かが」

「そうだね……うん、絶対そうだよ。姉さん、リリカおんぶするからちょっと手伝って」

メルランは二度、三度と頷いて、それから軽く屈んでみせる。
ルナサがリリカの小さな身体を抱え上げ、メルランの背に乗せた。

「よし、おっけ。姉さん、忘れ物とかない?」

「ちゃんと持ったわよ」

言いながら、ルナサは傍らに転がっていたリリカのキーボードを拾い上げる。軽く土埃を叩いて落とし、それを脇に抱えた。
それを確認して、二人は同時に歩き出す。無縁塚の入り口を抜け、魔法の森へ。
森の中を歩く二人は、特に会話もせずひたすらに歩を進める。
時折独り言のように『楽器を落とした事は後で叱らなきゃ』だの『お昼食べて無いからお腹空いちゃったよ』だのと呟くメルランに、一言二言ルナサが言い返すくらいだった。
やがて二人は森を抜ける。遠くに見える湖は、沈みかけた太陽の光を反射してまるでオレンジジュースのような明るい色。
道なりに歩き出した二人だったが、ここでメルランが唐突にルナサを向く。

「……なんかさ、こうしてると思い出さない?昔のこと」

「どんな?」

懐かしそうに呟くメルランに、ルナサは尋ねてみた。無縁塚を出てから初めて、一往復以上の会話。
メルランは茜色の空を見上げ、しみじみと語った。

「ほら、私達が騒霊として生まれ変わる前。四人で遊びに行ってさ、帰りにリリカが疲れてるくせにレイラをおんぶして。
 結局ふらふらになっちゃって、私がリリカを、姉さんがレイラをおんぶしたよね」

「……ああ……そんな事もあったわね」

答えるルナサの表情も、どこか懐かしそうだ。

「その時も、こんな夕焼け空の下を歩いた。私がリリカをおんぶしてるのもおんなじ。後は、レイラがいれば完璧なんだけどさ」

「それは仕方ない事……なんだけれど。レイラの事だし、この様子をどっかから見てて同じように懐かしんでるんじゃないかしら」

それを聞いたメルランは少し驚いた表情になり、すぐに元の笑顔へ。

「へぇ、姉さんも結構ロマンある事言うじゃない」

「何か引っかかる言い方ね」

ルナサがメルランをじとっと見つめると、彼女は慌てて首を振った。

「いやいや、姉さんは真面目だからさ、あんまり非現実的な事は言わないもんだと思ってたから」

「幻想郷でそんな事言ってもね。それに、レイラがもうどこにもいないなんて、あなただって思ってないでしょう?」

「当然」

相も変わらない笑顔で答えるメルランを見て、ルナサは肩を竦めた。
それから先刻のメルランと同じようにもう一度空を仰ぎ、嘆息。

「……結局、リリカとレイラにおんぶしてもらう事は出来なかった、か」

どこか寂しげな表情のルナサに、メルランはからかうような口ぶりで言った。

「何言っちゃってんのさ。おんぶする役はいつだって……」

「私とメルラン」

間髪入れない返し。二人はオレンジ色に染まった互いの顔を見合わせ、大きく声を上げて笑った。
暫く笑って、やっと収まった二人の眼前に、古びた屋敷が見えてきた。

 

―――プリズムリバー邸。ルナサの、メルランの、リリカの―――そしてレイラの、帰る場所。

 

―――本日、晴れ。雲が出ているので快晴とまではいかないが、恨めしいくらいに青く澄んだ空模様。
この日の博麗神社には、とてつもない数の人―――妖怪や妖精等も混じっているが―――が詰め掛けている。参拝客、というわけでも無さそうだ。
その理由は、神社の本殿前に特設されたステージにある。


「おっしゃー!今日は来てくれてどうもありがとね〜!!」


ステージ上に飛び出してきた三人の少女。言わずもがな、プリズムリバー三姉妹である。
即座に大歓声が会場を埋め尽くし、一番最初以降のメルランの言葉はよく聞き取れなかった。
今日は、博麗神社でのライブ。リリカの一件以来、初めての三姉妹揃っての音楽活動だ。

「それじゃあ、早速最初の……ちょ、も少し静かにして〜!始めらんないから!!」

一番声が大きいメルランがアナウンス役も兼任するが、あまりに大きな客席からの歓声に掻き消されかけている。
その様子を横で見ていたルナサとリリカは顔を見合わせ、苦笑い。それからすぐに、客席へ向けて手を振った。
この大歓声は、自分達の演奏を楽しみにしてくれている事の証なのだ。それに応えない訳にはいかない。

「ああもういいや、始めちゃう!最初の曲、いっきま〜す!」

半ば投げやりながらも嬉しそうなメルランの言葉を聞き、二人も楽器を構える。
姉妹にとって見知った顔も多い客席からの歓声に、さらに拍手がプラスされた。

―――あの日、メルランに負われて無縁塚から帰ったリリカは、翌日の朝まで目を覚まさなかった。
そして、夢を見た。その中で、リリカは屋敷にいた。横にはルナサが、メルランがいる。だが、レイラはいない。
居間のソファに座り、他愛も無い話で盛り上がる。まるで普段と変わらない日常の光景。
そんな飾り気も何も無い夢だったのに、リリカは目を覚ました時、この上なく幸せな気持ちになれた。
家族と共に他愛も無い話で盛り上がれる。それがどんなに幸せな事か、彼女には分かった。
レイラの姿は見えなかったけれど、不思議と寂しく無かった。まるですぐ隣にいるような感覚。

(いつでもそばにいる、ってこういう事なのかな?)

そんな事を考えるリリカの部屋のドアがノックされ、メルランが顔を覗かせる。いつも通りだった。
あの時、無縁塚で何があったのか―――ルナサもメルランもそれが気になっていた。
リリカはそんな二人の気持ちが何も言わずとも理解出来たので、その日の内に三度全てを話して聞かせたのだった。
夢の正体がレイラからの呼びかけであった事や、心情風景が見せた光景、二人で語らった事―――そして、別れ。
ひとしきり話し終えたリリカに、ルナサが優しく声を掛ける。

「……何だか途方も無い話だけれど、あなたがそう言うのならそうなのでしょうね。
 本当に色々あった。とりあえず、お疲れ様と言うべきなのかしら?いや、それとも……ごめんなさい、何と言えばいいのか」

言葉を探すルナサにリリカはヒラヒラと手を振った。

「やだなぁ、別にそんなの。姉さん達が探しに来てくれただけで十分だったよ、私にはね。
 レイラの姿を見る事はもう叶わなくても、姉さん達はいつも私のそばにいてくれるし……それだけでいいの」

笑って言うリリカの表情に、もう悩みや迷いは見えない。
―――あれから、リリカがレイラに関する夢を見る事は無くなった。また、過去の思い出を夢で見る事も無くなった。
以前のリリカであれば、夢を見れば見たでレイラに会いたくなって泣いただろうに、見なければ見ないで、寂しさで泣いていただろう。
だがあの日、レイラは言ったのだ。いつも見ていると。現に、彼女はリリカの渾身の演奏に小さな拍手を返してくれた。
その理屈は分からない。レイラの言葉から推測するに、未練を残した亡霊として留まっていたレイラが、成仏する前に最後の力を振り絞ったのかも知れない。
或いは、騒霊を生んだ魔法の名残をずっと自らの身に宿していて、拍手という最後のメッセージでそれを使い果たしたのかも知れない。
しかし、これだけは確実に言える。レイラは確かに、リリカの演奏を聴いていた。
姿は見えずとも、レイラはリリカをどこかで見守っている。きっと、これからも。それが分かったのだから、もう寂しくなんか無い。

「めそめそしてたら、レイラに笑われちゃうしね」

えっへん、と胸を張るリリカの肩を、メルランがつつく。

「ところで、さっきの話は本当なの?」

「話って?」

何の事か分からず首を傾げるリリカに、メルランは詰め寄った。

「レイラが、リリカが一番好きだって言った事!」

「え?ああ、本当に決まってるじゃない」

嬉しそうに頷くリリカに、メルランは首を振った。

「いや、レイラは優しい子だから……リリカを傷つけまいと敢えてそう言ったに決まってる。本当は、私が一番好きなはず!」

「違うもん!レイラの目は本気だった!それに、レイラは嘘をつく子じゃないもん!私だよ!」

「私だってば!」

「なによ、メル姉さんのばーか!!」

「リリカのばかー!!」

やいのやいのといつも通りの口喧嘩。騒霊の名に恥じぬ騒がしさを展開する二人の肩を、ルナサが同時にポンと叩いた。
ビクリ、と肩を竦ませる二人。この後は大抵、ゲンコツ+お説教のコンボが待っているのだ。
だがルナサは二人の顔をそれぞれ見てから、はっきりとした口調で言い放った。

「……レイラが一番好きなのは……きっと、私!」

「……はい?」

ガタン、と音を立ててまるで漫画のようなズッコケをするメルラン。リリカも何のギャグかと口をポカンと開けて呆然。
ルナサは顔を赤らめ、咳払い一つしてから『冗談よ』と呟いたが、目は真面目だった。

「そうじゃなくて。そんな事で喧嘩ばかりしてるから、レイラにまた笑われてるわよ。成長してない、って」

「あ、うー……」

恥ずかしそうに口ごもるリリカを見て、ルナサはやれやれと肩を竦めた。
メルランもその横でうんうんと頷く。

「そうそう。少しはお姉ちゃんらしい所見せなきゃ、レイラに呆れられちゃうぞ?」

「あなたもよ」

即刻ルナサがぴしゃりと言い放ち、メルランもまたしょんぼりと肩を落とすのだった。

こうして、三姉妹に普段通りの日常が戻った。
リリカの体調を気遣って延期していたライブの予定を正式に決定し、ひたすら練習に打ち込む。
博麗神社でのライブは、人妖双方にとって有名かつ行きやすい場所なので、他の場所に比べて人が集まりやすい。
長時間のライブやアンコールにも応えられるよう、多くの曲を用意した。その分練習時間は長くなるが、ライブ成功の為なら努力は惜しまない。
その中でも、リリカは特に気合を入れて練習していた。朝から晩まで練習に費やし、時間があれば楽譜のチェック。
沢山の人々の前で演奏するのだから、恥ずかしい演奏は出来ない―――そう考えるのは当然であるし、だからこそ練習に熱が入るのも納得出来る。
だが、彼女が頑張る最大の理由は―――


(空の上から、レイラもこのライブを楽しみに待っててくれてるはず……!)


”妹にいい格好を見せたいから”だった。どこかからきっと見てくれているであろうレイラに、頑張っている自分の姿を見せたかった。
そして―――

「次で最後の曲になりま〜す!最後まで聴いてくれてありがとう!!」

熱気溢れる観客席にメルランが声を張ると、残念そうな声があちこちから返って来る。
長かったライブもいよいよクライマックス、最後の一曲を残すのみとなった。
終わりを惜しむ声が絶えない観客席に向かって、今度はリリカが一歩前に出て声を張った。

「だいじょーぶだいじょーぶ!また近いうちに会えるって!!」

ほんの少しだけレイラを意識した言葉だったが、観客は当然それに気付く由も無く、段々と元の歓声が戻っていく。
その歓声が鳴り止むのを待たずに、リリカは指先に力を込め、キーボードの上を滑らせた。
締めの曲は勿論、ライブの定番たる『幽霊楽団 〜 Phantom Ensemble』。ライブにおいてこの曲は必ず最初か、最後だ。
イントロが流れ出し、観客席は水を打ったように静かになる。今博麗神社に響き渡るのは、リリカのキーボードの音色だけ。
鍵盤を叩くリリカの脳裏に、ぼんやりとした映像が流れ始める。


幼いレイラの前でこの曲を始めて演奏した時。あちこち間違えたけれど、最後まで演奏した時にレイラは満面の笑顔で拍手してくれた。
慣れてきた時。もう間違える事は殆ど無くなって、『前からそうだったけど、今は凄く上手になったね』とレイラは褒めてくれた。
レイラの晩年。その身体が老いさらばえていこうとも、レイラは昔となんら変わらない優しい笑顔と拍手をくれた。頑張って演奏した、何よりの報酬。
レイラがいなくなった後。三人だけになっても、この曲は姉妹の代表曲としてずっと演奏され続けた。今も変わらない。
無縁塚でのレイラへ向けたソロライブ。あれだけ本気になって演奏したのは始めてかもしれない。何が何でも届かせたかった。


―――そして、今。イントロを二度繰り返して、ルナサのヴァイオリンが流れ始めた。
二つの音色は溶け合って流れていき、観客の耳に確かな旋律を刻んでいく。
メインフレーズへ入り、メルランのトランペットが響き渡る。とにかく元気に、激しく。それを支えるように、ルナサとリリカも演奏する手に力を込めた。


―――そうだ、今は一人じゃない。ソロでやるのもいいけれど、プリズムリバーは三人揃ってこそだ。


(レイラ、聞こえる?私達の演奏が!)

心の中で呼びかける。今まさに作り上げているこの演奏が、最高の演奏であって欲しかった。
自分達が生み出せる最高の音色を、観客に、そして誰よりもレイラに届けたい。
リリカは、ひたすらに全力でキーボードを奏でた。サビから間奏に入ってもその勢いは衰えず、力強く曲を繋いでいく。
その指の動きに一切迷いは無い。確かな自信と、気合。
やがて曲はイントロを経て、再びメインフレーズへ突入。また三人分の音色が一体となった激しいその演奏に、観客達は沸き上がり、手拍子で応える。


―――演奏が、終わった。


終わり際にはフライング気味に鳴り始めていた拍手が、三人が楽器を下ろした事で爆発的に広がっていく。
確かに、今の演奏は本当に上手く出来た。三人の息、音色の調和、音量、あらゆる要素が今までで最高水準だったように思える。
それでも予想を遥かに超えた歓声と拍手に驚きつつ、三人はそれに応えた。
控えめに手を振りつつも嬉しそうに、はにかんだ笑顔を見せるルナサ。
体中で喜びを表現するかの如くに飛び跳ね、ついにはトランペットを猛烈に鳴らし始めるメルラン。
そしてリリカはというと、暫し呆然としていた後に我に返り、大きく手を振った。

「みんな、ありがとう!!」

今までで最高の演奏が出来た喜びを伝えたかった―――まずは目の前の観客に。前方の観客席へ手を振り、声を張る。
それから彼女は一度手を下ろすと、口の横へ手を当てる。
肺の奥まで息を吸い込み、青空を仰いで―――

 


「レーーーーーーーーイラーーーーーーーーーッ!!!!」

 


満面の笑顔をその顔に浮かべ、妹の名を叫んだ。
そしてメルランのように何度もジャンプしながら、空へ向かって両手を振る。
ひたすらに大きく、大きく。例えどんなに遠く離れていても見えるように。

 


遥か大空の彼方からでも、

雲の上の冥界からでも、

三途の河の向こうからでも、

幻想郷の最果てからでも、

結界の外側からでも、

例え天国からだって、

 


―――大好きな妹の目に、その小さな自分の姿が映るように、ひたすら大きく手を振った。

 


忘れるものか。もう二度と、忘れるものか。
レイラは嘘をつかない子。レイラが言うのだから、きっとずっと、リリカを見守ってくれるのだろう。
だから、リリカもレイラを忘れない。この幻想の大地で、二人の姉と、そして見守るレイラと共に、素敵な旋律を響かせるだけだ。

(見ててね、レイラ!ずっと、ずっと!!)

リリカは眩しさを堪えて、その太陽にも負けない程の眩しい笑顔を青空へ向ける。

 

 

―――冥界まで透けて見えそうな、青空。その雲間から、レイラが微笑みかけてくれた―――そんな気がした。

 

 

―――鳴り止まない歓声と拍手が、会場を包み込む。
各々形は違えど、一様に笑顔でそれに応える三姉妹。
だが、この鳴り響く大きな拍手が、

 


この日会場に詰め掛けた人数よりも一人分だけ多かった事に、ルナサも、メルランも、そしてリリカも、最後まで気付かなかった。



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