―――人は、異質な存在を恐れる。
自分と違うもの。自分が踏み込めないもの。自分にとってよく分からないもの。それを怖がる。
それはいつの時代も、どこへ行っても変わらない。
自らと違うものを避け、排除しようとする。それは自分自身を守る為の防衛本能であり、本能に根付いた部分だ。
それはやがて集団対少数となり、”差別”へと発展していく事もある。
また、完全に駆逐されたと思われる”異質”はやがて幻想の存在となり、妖怪へと姿を変える事にもなり得る。
眩しい照明があちこちで灯る外の世界では”闇”への恐怖が薄れ―――やがてそれは幻想の世界で、宵闇の妖怪を生み出す。
幻想郷とは、そうやって出来た場所なのかも知れない。

 

 

―――彼女の名は、上白沢慧音。人里に住居を構え、寺子屋を開いて人間の子供達へ学を授ける事を生業とする。
性格は真面目にして温和、同じ里に住まう周りの人々も、聡明な女性だと良い印象を抱いている。
彼女に教わる子供達もまた、授業の難しさや宿題を忘れた時の怖さはともかく、丁寧で優しい先生だと思っている。
子供達の親、特に母親は慧音を見て自らの子供に『先生のような、賢くて優しい”人”になりなさい』と言い聞かせているとも聞く。

 

 

―――そのような噂を聞く度に、慧音は胸が苦しくなる。子供達は、そのままではどうやっても自分と同じにはなれない。
それは性格や知識の問題では無い。もっと根本的な部分。


上白沢慧音は、人間では無い。


満月の夜になると、己の姿は白沢へと化す。つまりは半人半獣、妖怪と同義。
この事実を、里に住まう―――慧音に良くしてくれる―――人々の九割九部は、知らない。彼女を純粋な人間だと思っている。
知っているのは彼女の親友たる藤原妹紅か、異変時に関わった里の外部の人間―――博麗霊夢や霧雨魔理沙、他数名くらいだ。
そして慧音は、この事実を公にするつもりは一切無い。妹紅にも固く口止めしている。


―――そうして、今日まで里で平穏に暮らしてきた。そして、これからもそうするつもりだった。


「えっと……石は同じ場所にずっとないとコケがつかないのとおんなじで……」

「そうそう」

「だから、一つのことに集中して取り組みましょう、って意味です」

「うん、その通りだ。良く出来たな」

慧音は満足そうに頷き、褒められた最前列の男の子は少しだけ恥ずかしそうに笑いながら再び腰を下ろした。
場所は当然、人里内寺子屋。丁度、国語の授業で諺について教えていた所だ。
着席を確認し、慧音は教室を見渡した。

「彼の答えてくれた通り、『転石、苔を生ぜず』とは、あちこち鞍替えしていては大成しない、という意味で使われる」

彼女の話を聞く生徒達は皆興味を持っているようで、慧音の顔をじっと見つめている。

「つまりはまあ、じっとしていなきゃ苔は付かない、という事なんだが……諺とは面白いものでな。
 どこか遠い異国にも同じ諺があるんだが、こちらでは『常に動いていれば苔が生える事は無い』というニュアンスで使われるんだ」

ここで慧音はもう一度教室を見渡したが、反応はいまいちのようである。苦笑し、彼女は続けた。

「要するにだ。簡単に言えば、一箇所に留まらずに色々な事へチャレンジする者は苔がまとわりつかず、常に新しい者、綺麗な姿でいられる、という事だ。
 我々は苔が付く事を良しとするのに対し、その国では苔が付く事は悪い事だと捉えている。同じ諺でも場所によって意味がまるっきり逆になってしまう訳だな」

ここで子供達も理解したらしく、あちこちから『おぉ〜っ』と感嘆する声。

「このように、同じものでも意味が違う諺や、違う二つの諺が、まるっきり反対の意味を持っているという事もあるんだ。
 これを矛盾と捉えるか、文化の違いによる意味の齟齬……違いと捉えるか。まあ、そこもまた諺の面白さだな。
 日常会話に混ぜ込んでみれば、手軽に自分の姿を賢く見せられる。モテたい者は諺を勉強するといいかもな。
 もし、異性がやたらと諺を混ぜて話しかけてきたら……ひょっとして好かれてるかも知れないぞ?要注意だ」

どっ、と教室のあちこちから笑いが起こった。時折このようなユーモアを取り入れてみせるのも、彼女が人気である理由の一つだ。
もっとも、これは以前『授業が退屈』と言われて落ち込んだ慧音に妹紅がアドバイスした結果なのだが。
笑い声が中々収まらないので、慧音はパンパンと手を叩いて教室を静まらせる。

「はいはい、じゃあ今日の授業はここまで……と言いたい所だが……ん?」

言いかけて、慧音はふと右側―――教室の窓に視線を走らせた。

(今、何か……)

「先生、どうしたんですか?」

前から二番目、窓際に座る女の子に声を掛けられ、慧音は我に返った。

「あ、ああ……何でもない。授業はここまでだが、最後に諺のテストをするぞ」

一転、あちこちから『えぇ〜っ……』というブーイングともとれる嘆き。
慧音は有無を言わせぬ素早さでプリントを配っていく。

「そこまでガッカリされると心外だな。大して難しくないから安心しなさい……今日の授業を聞いていたなら、な」

逃れる術も無いので、観念したように子供達はしまいかけた鉛筆をもう一度取り出して、プリントに挑みかかる。
全ての席に配り終えてから、慧音は一拍置いて素早く窓へ顔を向けた。
その刹那、窓の外にいた影が引っ込む。予想外の行動だったのか、隠れるのが遅れたようだ。

(……やはり、誰かが覗いている。それも結構前からだな……同じ者だろうか)

慧音は誰もいなくなった窓の外へ視線を飛ばしつつ、考えた。
およそ一ヶ月程前から、誰かが授業中の教室を覗いている事に、彼女は気付いていた。
何かをしでかす訳でも無いので放っておいたのだが、ここ最近は毎日だ。流石に彼女も気がかりになってくる。

(子供達に何か危害が及ぶ前に、対策するべきだな)

何かがあってからでは遅いのである。慧音は視線を窓から、懸命にプリントの欄を埋める子供達へ向けた。

「先生、さようなら!」

「ああ、また明日な」

最後の小テストも終わり、子供達は皆元気良く挨拶をして、教室から去って行く。
時刻は午後三時前。今は晩夏の残暑もやや過ぎ去り、これから本格的に秋へと変わる時期なのだが、そうで無くともまだまだ明るい。
これから家の手伝いをする者、友人と遊びに出掛ける者等様々だ。
一人教室に残った慧音はこれから、子供達が残していったテストの採点をこのまま行うつもりでいた。
だが、その前にちょっとした実験を行う事にする。

(覗いている者が、授業そのものに興味があるならば……)

慧音はプリントの類を全て教卓に残したまま教室を出た。
表へ出て、三十秒ほど待つ。それから彼女はそっと、建物の側面―――窓がある側へ。
窓の所には、誰もいない。だが、慧音は見た。閉めた筈の窓が一つだけ、開いている。鍵はかけていなかったのだ。

(かかった!)

慧音は素早く取って返し、寺子屋の入り口へ。
足音を忍ばせて教室の前まで辿り着き、軽く深呼吸。場合によっては、弾幕沙汰になるかも知れない。

(プリントや備品に被害を出さずに無力化しなければ、か……)

本当はそうならないのが一番なのだが、誰が、何の目的で侵入したかは分からない以上、そういった事態も想定する必要がある。
意を決して、慧音は教室の扉を乱暴に開き、中へ踏み込んだ。

「誰だっ!!」

出来うる限りの凄みを利かせて言った慧音だったが、そこにいたのは意外な人物だった。

「!!?」

侵入者は、かなり小柄。突然慧音が帰ってきた事と怒鳴られた事で大層驚いた様子でビクリと肩を竦ませた。
その拍子に、侵入者が手にしていた一枚のプリントが、はらり、と床に落ちる。
しかし、慧音はそれよりもまず、目の前の侵入者の姿を凝視していた。
すわ危険人物相手の弾幕沙汰かと思って踏み込めば、そこにいたのは少女なのだから。
しかし、普通の少女と明確に違うのは、青いワンピースに大きなリボンという目立つ服装、そして透き通った羽の存在。慧音はゆっくり口を開いた。

「……お前……チルノ、か」

侵入者―――湖上の氷精・チルノは何も言えぬまま、こくりと小さく頷いた。
妖精と言えば悪戯好きな種族として知られるが、とりわけチルノは悪戯の天才と言えるほどにやんちゃな存在である事を慧音は知っていた。
近所の人間から時々、氷精に悪戯されたと相談を受ける事もあったのだ。その為チルノの名は多少人里でも知れているが、どちらかと言えば悪名である。
たまに会う度に悪戯を控えるよう言い聞かせていたので、彼女にとって自分は苦手な存在であるとも思っていた。
知り合いとも言える侵入者の正体に慧音は少し意外に思ったが、そのまま厳しい表情を崩さずにチルノへ向けてゆっくりと歩く。

「授業を覗いていたのもお前だろう……どういうつもりだ?今度は子供達にちょっかいでも出すつもりだったのか」

授業の邪魔をさせる訳にはいかないと、慧音は低めのトーンであえて怖がらせるように言ってみた。
まさか見つかるとは思っていなかったのだろう。威圧されつつにじり寄られ、チルノは何も言えぬまま棒立ちで固まる。その表情は若干の恐怖が見て取れた。
慧音はチルノの前まで歩き、足元に落ちたプリントを拾い上げる。

「おおかた、答案の答えを書き換える悪戯でもするつもりだったんだろうが……」

言いながら彼女は、拾ったプリントをひっくり返して表に。

「……ん?」

しかし、慧音の予想は裏切られた。その答案は、先刻配った際の余ったもの―――つまり、白紙答案。
さらに見やれば、チルノはその小さな手に一本の鉛筆を握っている。どうやら、そこらの机の上に残されていた物のようだ。

(……そういえば、以前から余りのプリントが一、二枚消えていた事が何度かあった……気のせいだと思っていたが……)

現に、チルノが手にしていたのは白紙答案。子供達の答えが書き込まれたそれは、慧音が教卓に置いていった状態のまま。
ここで慧音の脳裏に、ある仮説が浮かぶ。目の前の相手とこの状況証拠、もしかしたら―――と思い、彼女は思い切って尋ねた。

「チルノ……お前まさか、授業を受けたいのか?」

瞬間、チルノは目を見開いた。口で言うよりも早く彼女の答えが伝わってきて、慧音は内心頷く。
それから観念したようにチルノは顔を一旦伏せたかと思うと、ポケットを探り、数枚の折り畳まれた紙片を取り出してみせた。
差し出された慧音がそれを受け取り、開く。
慧音も予想はしていたが、それはやはりこれまでに拝借された答案。算数や日本語、漢字など。
ここで初めて、チルノがずっとつぐんでいた口を開く。

「……ぜんぜんわからないの」

確かに、算数のプリントは簡単な四則演算ばかりだが、基礎中の基礎と言える問題以外は全て答えが間違っているか、消しゴムをかけた跡が強く残っているだけだ。
書き取りも平仮名はともかく、漢字は大分いびつでおぼつかない。
暫くそのボロボロな答案を見つめていた慧音は、プリントから顔を上げるなりおもむろに手を上げる。
拳骨でもされるかと固く目を閉じ、首を竦めるチルノ。
だが次の瞬間、慧音は上げた手をポン、と優しくチルノの頭へ乗せる。

「……そういう事なら、早く言いなさい。人間だろうが妖精だろうが、学ぶ意欲のある者を拒みはしない」

「……ホントに!?」

「私は子供達に、人をがっかりさせる嘘はつくなと教えている」

途端に顔を輝かせたチルノ。そんな彼女が何だか可愛らしくて、慧音はそのまま頭を撫でてやる。

「ありがとう!じゃあ、明日から来ていい!?」

「……! いや、ちょっと待ってくれ」

「え?」

チルノは早速、子供達に混ざって勉強する自分の姿を思い描いていたようであったが、慧音は待ったを掛ける。
彼女はそのまま少し考えていたが、申し訳無さそうな口調で切り出した。

「申し訳無いが、チルノは子供達と別で……私との個人授業という形でもいいか?」

「……どうして?あたい、みんなにイタズラしたりはしないよ」

「い、いや、そうではなくてだな……」

「ねえ、なんでみんなと一緒じゃだめなの?」

どこか不服そうなチルノ。慧音は一瞬慌てたが、手をポンと打って続けた。

「し、しかし……そうだ。お前は冷気の制御がまだ不完全で、興奮すると冷気をよく放出してしまうだろう」

「あ〜、そういえば」

「問題が解けて嬉しくなる度に冷気を放出していたら、隣に座る子が風邪を引いてしまうかもしれない。だから、暖かい季節になるまで待ってはくれないか。
 勿論、皆の授業と同じように、きちんと教える事を約束する」

「……うん、わかった!」

「よし、いい子だ」

元気良く手を上げるチルノに、慧音は内心胸を撫で下ろす。
今、チルノに言ってみせた理由は建前―――というより、でっち上げだった。どうやら実際にそうだったようではあるが。
本当の理由は―――いきなり人間の子供達の中に、妖精を混ぜるのが不安だったから。

(私の教え子は皆いい子だ……分かってる。だが……)

人間が、自分と異なるものを避けようとするのは最早習性とも言える。
チルノは人間では無く、妖精だ。元々悪戯好きな上、服装や羽もそこそこ目立つ。その姿は幼い子供達にとって、ますます異質なものに映るだろう。
もし、チルノが人間ばかりのクラスで一人孤立してしまったら―――それだけならまだいい。よもやいじめに発展でもしやしないかと、慧音は心配だった。
たった今より教え子となったチルノを案じての、苦渋の決断。

(すまない……)

これから待っている”勉強”という未知の日々や、いつか来る子供達と一緒の授業に胸をときめかせるチルノを前にして、慧音は胸を痛めた。
内心で土下座せん勢いの慧音をよそに、チルノは笑顔のまま尋ねる。

「じゃあ、いつ来たらいいかな」

「え?あ、ああ……そうだな、夕方の四時くらいから来てくれれば、教えられる。一人なら教室を使う事も無いだろうから、私の家へ来るといい」

「よっしゃー!あたい、がんばって天才になる!」

「はは、あんまり最初からハードルを上げない方がいいぞ?」

「できるもん!」

頬を膨らませるチルノに慧音は思わず笑ってしまう。どうにか笑いを抑えてから彼女は再び言った。

「今日の所はとりあえず家に帰りなさい。授業は、明日から始めるぞ」

「はーい!」

手を上げて返事をし、チルノはそのまま教室を出て行こうとした。
しかし入り口で立ち止まると振り返り、慧音の顔を見る。
慧音が首を傾げたその時、チルノは顔を赤らめ、少し恥ずかしそうに口を開いた。


「……さようなら、先生!」


彼女は言い終えるなり、そのまま教室を飛び出していった。
残された慧音は、チルノが消えていった入り口を暫く眺めていたが、ふと天井を仰いで息をつく。思わず笑みがこぼれた。

(……先生、か)

賑やかな教え子が増えた―――慧音は、明日が少し楽しみになった。

翌日。その日の寺子屋での授業を終えた慧音は、併設されている自宅で待機していた。
その傍らには、この”個人授業”の為に用意したプリントが数枚と、筆記用具。
何度目か分からない誤字・脱字のチェックをしていたその時、ドンドンと玄関からノックの音。
慧音はすっく、と立ち上がりながら壁の時計を見る。きっかり四時であった。

(気合入ってるな)

思わず苦笑してしまってから、彼女は玄関へ。

「今開けるぞ」

言うと同時に、慧音は玄関の引き戸をガラリと開けた。

「こんにちは、先生!」

そこにはやはりチルノが立っていて、期待で胸が一杯なのか満面の笑顔。
その手にはむき出しのままで鉛筆が一本だけ握られている。家から持ってきたのだろう。
いつまでもニコニコと笑っているチルノを見て、慧音も自然と笑顔を見せる。

「いらっしゃい。随分と嬉しそうだな……これは教え甲斐がありそうで私も嬉しいよ。さ、上がりなさい」

「おじゃましま〜す!」

元気良く言って、チルノは玄関から中へ。靴を脱ぐ彼女の背後で、慧音が元通りに引き戸を閉める。
廊下を歩きながら、慧音は隣のチルノに話しかけてみた。

「それにしても、お前がいきなり『先生』と呼んでくれるとは思わなかったよ」

「だって、あたいは生徒になったんだもの。ちゃんと先生って呼ばなきゃだめでしょ?」

歩きながらえっへんと胸を張るチルノに、慧音は軽く頷いた。

「ん。まあ、それはそうなんだがな。普通にこれまで通り名前で呼ばれるものだとばかり」

「……だめ?」

するとチルノは少し不安そうな表情になり、慧音の顔を覗き込む。軽く驚いた慧音は慌てて首を振った。

「そんな事は無い。好きなように呼んでくれて構わないさ」

「じゃあ、先生!」

安心したように笑うチルノを見て、慧音は思った。

(……ひょっとして、先生という存在に憧れでもしていたのか?)

一連の会話を交わす内に、二人は座敷へ。やや小さめの背が低いテーブルに、向かい合う形で座布団が二つ。
予めプリントが置いてあった側に慧音が膝から座り、チルノを促した。

「そちらに。一応筆記用具は用意しておいたんだが、持参してくれたか。まあ、消しゴムにはお世話になるだろうし、使ってくれ」

「ありがとう」

言いながらチルノも座布団に腰を下ろし、持って来たその一本の鉛筆を机に置いた。

「しかしその鉛筆、元々持ってたのか?それとも今日の為に自分で買ったのか」

「持ってたには持ってたんだけど、昨日新しく買ってもらったの。明日から勉強するんだって言ったら、大ちゃんが」

あの世話好きの大妖精らしい―――その情景が簡単に想像出来たので、慧音は我知らず笑っていた。

「そうか、それは良かったな。ちゃんとお礼は言ったか?」

「もちろん!」

「うん、偉いぞ。しかしだ……せめて筆箱くらいはな」

「ん〜、あたいがエンピツ一本でいいって言っちゃったから。今度はちゃんと用意しとく」

その言葉に頷き、慧音は手元にあったプリントを一枚手に取った。

「じゃあ、早速やってみよう。まずは書き取りからだな」

言いながら彼女は手にしたプリントをチルノの前へ。
内容は平仮名と簡単な漢字の書き取り。チルノは新品の鉛筆を持ち直し、懸命に空白欄を埋め始めた。

「……できた!」

「ほう、早いな……どれ、見せてみなさい」

プリントに挑みかかってから十数分後。歓声を上げるチルノに慧音は少し目を丸くした。
それからチルノの前に置かれたプリントを手に取り、上から順に見ていく。

「少々不恰好だが、平仮名は問題無いようだな。漢字もこのくらいの簡単なものなら大丈夫、か」

殆ど独り言のような慧音の言葉だったが、チルノにも褒められてるのは分かったのか得意そうな顔。
しかし、慧音が次にチルノの方を向いた時、彼女は幾許真面目な顔をしていた。

「しかし、だ。さっきから書く様子を見ていたが、一部の平仮名及び漢字に書き順の間違いがあったぞ。
 書き順というのはその字を美しく書く事を考えて決められている。出来る限り守ったほうがいいだろう」

「えっ……ご、ごめんなさい」

途端にしゅんとなってしまうチルノに、慧音は柔らかい笑みをその顔に浮かべてみせた。

「落ち込む事は無い。お前はこれまで勉強を受けられる環境にいなかったのだから、正しい書き順を知らないのも無理は無いさ。
 それよりも、これからはきちんとした書き順で書けるよう、ちゃんと練習する事が大事なんだ。
 見た所、多少はどこかで知っていたのかも知れないが……授業の覗き見程度でここまで書けるというのは凄い事だと、私は思うぞ」

再び褒められた事で、落ち込んでいたチルノの表情にも明るさが戻る。若干の照れが見え隠れするくらいだった。

「そ、そうかな……」

「そうだとも。では、お前が書き順を間違えていた平仮名の、正しい書き順を教えるぞ。私がまず書くから、下の空いた場所に書いてみなさい」

慧音は立ち上がるとチルノの横に座り、机の上にあった赤鉛筆を手に取った。
先程のプリントをひっくり返してから再び口を開く。

「まず最初に……お前はどうも、縦の部位を先に書く癖があるようだな」

言いながら彼女はそのプリントの裏面に”か”の文字をゆっくり丁寧に書いてみせる。

「例えばこれ。”か”の文字は、この一番長い部位から書くのが正しい書き方だ。それから縦線を引き、最後に点。やってみなさい」

促され、チルノも慧音が書いたのと同じ書き順で”か”の文字を書く。
広く空いたプリント裏面の片隅に、赤鉛筆で書かれた綺麗な”か”の字と、黒鉛筆で書かれた少しいびつな”か”の字が並んだ。

「……こう?」

「そう、それでいい。今まで間違って覚えていたから最初は戸惑うかも知れないが、今にこの方が書きやすくなるだろう。
 とりあえず何度か書いてみて、感覚を掴むんだ」

慧音の言葉にチルノは頷き、今しがた書いた”か”の下にいくつも”か”の文字を書き込んでいく。
プリント左端の上から下までを埋め尽くした所で、慧音は頷いた。

「うん、そのくらいでいい。次にいくぞ……”け”の字も同じだ。左の縦が最初なのはいいんだが、次に書くのは横棒だ。最後に下」

「なるほど〜」

慧音が再び赤鉛筆でお手本を書き込み、チルノがその下に何度も、不器用ながらも同じ字を書き込んでいく。
この日はその作業だけで、三時間もの時をあっという間に消化してしまった。

壁に掛けられた時計は午後七時を指している。短針と長身の追いかけっこも、チルノが来た時から数えて四週目。
丁度、”木”の漢字で残ったプリントの余白を埋め終えたチルノに、慧音は声を掛けた。

「よし、今日はもうこのくらいにしよう」

「……え?あっ、もうこんな時間……」

時計を見て目を丸くするチルノに、慧音はくすりと笑った。

「随分と集中していたからな、時が流れるのも早く感じるさ。初めてなのによく頑張ったな」

慧音は机の上に置かれた、裏面がびっしりと書き取りで埋められた何枚ものプリントをちら、と見て言った。
それから、チルノの頭を労うように優しく撫でてやる。
すると勉強の間は引き締まっていたチルノの表情が、ふにゃりととろけるような笑顔に変わった。

「う、うん……あたい、がんばったかな」

「ああ……ところで、どうだった?初めて授業を受けてみて」

肯定しつつ、少し気になる質問を慧音はぶつけてみた。
チルノは笑顔を崩さずにそれに答える。

「すごく楽しかった!ねえ、このまま続きやりたいな」

勉強を面倒くさがる者こそ数多いが、楽しいと言ってもらえれば慧音としても教師冥利に尽きるというものだ。
しかし、彼女は首を横に振る。

「ありがとう。そう言ってくれると、私としても教えた甲斐がある……だが、このまま続きをやるというのには賛成しかねるな」

「なんで?」

首を傾げるチルノに、慧音は人差し指をすっ、と伸ばして続けた。

「チルノのもっと勉強したいという意欲はとても素晴らしい事だし、大事な事だ。
 だが、お前は気づいてなくても……お前の問題を追う目、鉛筆を握る手、そして考える為の脳はかなり疲れているんだ。
 疲れていては、勉強してもモノになる部分が少ないし、能率も落ちる。その意欲は明日の授業にぶつける事にして、今日は休みなさい。いいな?」

「うん、わかった!」

手を上げての元気の良い返事が返って来て、慧音は満足そうに頷いた。

「それじゃあ、今日の授業はここまでだ」

「先生、ありがとうございました!」

今度はお辞儀と共にきちんとした挨拶が返って来たので、慧音は驚くと同時に苦笑した。

(授業を覗き見てた時に、帰りの挨拶も覚えたのか)

そのまま二人は連れ立って玄関へ。慧音がドアを開ける間、チルノは靴を履く。
とんとん、とつま先を土間で叩いてから、彼女は傍らに置いてあった自分の鉛筆を手に取り、外へ出た。

「明日は?」

「今日と同じ、午後四時にここへ。待っているぞ」

「うん!先生、さようなら!」

すっかり夜の帳が下りた人里。しかし、所々に明かりが灯っていて完全な闇では無い。
そんな里の大通りに、チルノは手を振りながらその姿を溶け込ませていく。

「ちゃんと前を見て歩きなさい、ぶつかるぞ!」

後ろ歩きしながら未だ手を振ってくるチルノに、苦笑いと共に慧音はそんな言葉を投げかける。
暗闇で殆ど見えなくなったチルノが頷くのが輪郭で見え、それから彼女はくるりと踵を返して走り去った。
チルノが消えていった夜の闇を暫く慧音は眺めていたが、一つ息をついてから玄関をくぐる。
後ろ手で玄関のドアを閉め、施錠。靴を脱いで家に上がった所で、最後に見たチルノの笑顔を思い浮かべてみる。

(……下手な教え方は出来ないな、これは)

元よりそんなつもりは無いのだが。慧音は決意するかのように一人頷き、先程の部屋を片付けるべく廊下の奥へ消えていった。

―――それから、暫くが経って。
土曜及び日曜を除いて、チルノは毎日慧音のもとへ通った。
慧音も本来の寺子屋での授業の合間を縫ってチルノの為の授業用資料を作成し、彼女にきちんとした教養を授ける。
そしてこの日も、いつもの座敷でチルノはお勉強。

「……おっと、ここ間違ってるな」

「えっ、うそ!」

指摘の声に、チルノは驚いた様子を見せる。彼女なりに自信のあった回答だったのだろう。
慧音はプリントの一角を指差した。そこには”12+3×8”の式があり、チルノの回答は”120”となっている。

「よくある間違いだな……ほら、前に教えただろう?足し算または引き算と、掛け算及び割り算が混ざっている式では……どうするべきか」

彼女の言葉に数秒頭を悩ませていたチルノは、急に何かを思い出したかのように頭を上げた。

「……あっ!そうだ、掛け算や割り算を先にやるんだ!」

「その通り。さ、もう一度だ」

慧音が頷くのを見て、チルノは先程の回答を消しゴムで消し、少しだけ考えてから新たに”36”と書き込んだ。

「よし、今度は正解だ」

「ふへ〜、よかった……かなり難しくなってきたよ」

安心したように息をつきつつ、チルノはべったりと机に突っ伏した。
その様子を見て、慧音は笑いながらその小さな背中をポンと叩く。

「はは、まだまだ甘いぞ……と言いたいが、思っていたより授業ペースは遥かに快調だ。
 ここまでよく頑張っているな。少し休むか?」

慧音の言葉に、チルノは少し顔を上げた。

「う〜ん……でも、先生がいつも教えてる人間の子達は、もっと勉強してるんでしょ?」

「え?ああ、そうなる……のかな。確かに、お前よりもずっと前から寺子屋に通っていた子もいる」

「そっかぁ……」

言いつつ、彼女は顔を慧音の方へ向ける。
視線を逸らさないチルノに、慧音は少したじろいだ。

「ど、どうした。私の顔に何かついているか?」

「……ううん。たださ、人間ってすごいなぁ、って」

「どうしてだ?」

チルノがこんな風に他種族の生き物について言及するのを聞いたのは初めてだったので、慧音は尋ねてみる。

「だって。その子達は、生まれた時から勉強ができたわけじゃないんでしょ?」

「それは勿論だが……」

至極当たり前の返答をし、慧音はチルノの次の言葉を待った。

「あたいみたいな妖精や、ルーミアみたいな妖怪は、生まれて少しもすれば弾幕だって出せる。
 けれど、人間は生まれた時は何もできないし、大人になっても弾幕を出せる人だってほとんどいない。
 だけど、たくさん勉強して……ああやって、毎日がんばって働いてる。だから、すごいなって」

彼女の言葉の後半は、人々が行き交う窓の外を向きながら。
そこで慧音も頷いた。

「まあ、そうだな。人間は弱い生き物だし、生まれ持った特殊な能力なんて何も無い。
 だが、勉強でも何でも、少しずつコツコツと積み重ねて……やがては一人前になる。
 人は、それを努力と言う。人間は努力の生き物。だから私は、人間が好きなんだ」

感慨深そうに語る慧音だったが、気付けばチルノがその顔を再びじっと見つめている。
二度目となるこのシチュエーションに、慧音は若干の動揺をその顔に表した。

「……こ、今度は何だ?あっ、別に私は妖精が嫌いとは言ってないぞ?決してそんな事は」

「えっと、そうじゃなくて」

チルノは一度首を横に振ってから、再び慧音の顔を見る。

「先生は、このくらいの問題なんて簡単に解いちゃうんでしょ?」

言いながら彼女は手元のプリントに書かれた、先程の算数の問題を示してみせる。

「あ、ああ……まあ、な。そうでなきゃ、教師は務まらないからな」

戸惑いつつそう返した慧音に、チルノは笑顔を向けた。

「だからね、あたいが一番すごい人間だって思うのは……先生なの」

 

その瞬間―――本当に僅かな瞬間、慧音の顔が強張った。

 

「先生になるなら、本当にたくさんのことを勉強してなきゃいけないでしょ。
 けれど先生はすごく頭がいいし、おまけに人間なのに弾幕だって出せるし。本当に……あれ、先生?どうしたの?」

反応の無くなった慧音に、チルノは首を傾げる。
しかし慧音の表情は、どこか遠くを見るような形のまま固まっていた。

(ああ……やはりこの子も、私を人間だと思っているのだな……)

自分は人間では無い。半人半獣、殆ど妖怪と変わらない存在。その事実を、目の前の無邪気な氷精は知らない―――

「先生……先生ってば!」

しかし次の瞬間、慧音はチルノの大声で現実に引き戻された。

「はっ……あ、ああ。すまない」

「もう、どうしたの?」

慧音が話を聞いていなかったと思っているのか、チルノの表情はどこか不満げだ。
何かを追求される前に、慌てて慧音は話を逸らす事にする。

「い、いや、何でも無いさ。ただ、私を褒めたって問題のチェックを甘くするつもりは無いぞ?ほら、ここにも計算ミスがある」

「えっ……うげ、ホントだ」

手元のプリントにある式”8×7×2”の答えが、”108”になっている。
その部分を指し示され、チルノは辟易とした表情。

「8×7=56とか6×9=54だとかは、数字が近いから答えが混同されやすい。
 気をつけていないと、無意識の内に普段では有り得ないようなミスをする事だってある」

「うっう〜……あたい、まだバカなのかなぁ」

「そんなに落ち込むな、まだチルノは勉強を始めたばかりだ。次に同じ間違いをしなければいい」

気を落としつつも、再び鉛筆でガリガリと正しい答えを書き込み始めたチルノ。
その頭を慧音はやはり、励ますように優しく撫でてやった。

チルノとの個人授業を始めて幾許経ったが、その間も慧音が本職である寺子屋での授業の手を抜いたかと言えば、無論そんな事は無い訳で。
普段と変わらぬ内容とペースで、人間の子供達にもきちんと学ばせている。

「―――と言う訳で、だ。おさらいすると、分数同士の掛け算は、分母同士、分子同士を掛け算するという事だ。きちんと覚えておくように。
 分数の足し算や引き算と一緒に出てくると混同してしまう事も多いから要注意だ。では最後に一つ、簡単な問題を解いてもらおうかな」

この日の授業は算数だった。慧音は言い終わると同時にチョークを手に取り、黒板に”1/2 + 1/4 × 2/3”という式を書き、生徒に向き直る。

「この問題、誰か解いてみてくれ」

すると教室のあちこちから手が上がる。満足そうに頷いて、慧音は一番廊下側の列の前から三番目に位置する女の子を指した。

「よし、やってみなさい」

「はい」

返事をして立ち上がり、女の子は慧音からチョークを受け取る。
黒板の前に立ってから数秒程考えて、彼女は”2/3”と答えを書き込んだ。

「よし、正解だ。きちんと約分までしてくれたな。みんな拍手!」

パチパチと拍手が起こり、女の子は少し照れたように顔を赤くしながら自分の席へと戻った。

「彼女がきちんと締めてくれた所で、本日の授業はここまで」

「ありがとうございました!」

生徒達は一斉に立ち上がり、お辞儀一つ。慧音がもう一度頷くと、途端にガヤガヤと教室がざわめきに包まれた。
今日も無事に授業を終える事が出来たと、ほっと一息ついた慧音の下へ数人の子供達がやって来た。

「先生!」

「ん、なんだ?授業の質問か?」

すると子供達は一斉に首を横に振った。

「そうじゃないの」

「先生、今日の夜は月が満月だって。だからみんなでお月見するんだけど……先生も来てよ!」

毎年秋頃になると、満月の夜に子供達が月見へ行くのを、慧音も知っていた。今年もそんな時期なのだ。
何かを期待する眼差しの子供達だったが、慧音は残念そうに首を横に振った。

「あ〜……すまない。誘ってくれたのは凄く嬉しいんだが、今日はどうしても外せない用事が出来てしまったんだ」

「え〜……」

「な〜んだ、ざんねん」

明らかにしょげた表情へと変わってしまった子供達に、慧音は申し訳無さそうな顔をして続ける。

「せっかく誘ってくれたのに、ごめんな。せめてものお詫びになるかは分からないが、明日の宿題は無しにしよう。それで勘弁してくれ」

「えっ、本当に!?」

「やった!」

途端に喜ぶ子供達の様子に、慧音も釣られて笑顔を見せた。

「ああ、約束しよう。だから許してくれないか」

「うん……けど、今度は来てね?」

「先生、確か去年も一回も来れなかったから……ちょっと寂しいな」

「ああ、なるべく努力はするよ。それから、必ず大人について来て貰うようにな。すぐ近くの丘までとは言え、里の外まで行くんだろう?」

「大丈夫だよ!」

約束を交わし、子供達は口々に『先生、さようなら!』と言って教室を出て行く。
気付けば他の子供達の姿も既に無く、慧音は一人教室に残されていた。
誰もいない事を確認して、彼女は深くため息をつく。

(……私は、本当に残酷な教師だな……)

今にも実体を持って、床にめり込みそうな程の重たいため息だった。

家に帰ると、もう三時半だった。
慧音が少ない荷物を床に置き、やれやれといった体で伸びをしたその瞬間、玄関からドンドンという聞き慣れたノックの音。

(この叩き方は……あいつか。早いな)

慧音は来客の正体におおよその見当を付けつつ、玄関へ向かう。
ガラガラと音を立てて引き戸を開けば、そこには慧音の予想と寸分違わぬ来客の姿。

「へへ、早く来ちゃった。こんにちは、先生!」

チルノだった。いつの間に手に入れた真新しい筆箱を手に、いつもの笑顔。
この日の授業が待ち切れなくて、早く来てしまったらしい。
そんな彼女の笑顔を崩すような真似はしたく無かったが、言わねばならない。慧音は口を開いた。

「いらっしゃい……と言いたい所なんだがな。すまないが、今日の授業はお休みにさせてくれないか」

「へ、なんで?」

予想だにしない言葉だったのだろう、首を傾げるチルノに慧音は頭を下げた。

「夜に、ちょっと大切な用事があってな。その準備やら何やらで、お前に勉強を教えてやる暇が無さそうなんだ。せっかく早く来てくれたのに、ごめんな」

「……そっかぁ、わかった!ちょっと残念だけど……しょうがないよね」

「チルノが聞き分けのいい子で良かったよ。明日は今日の分まできちんとやるからな」

「は〜い!先生、また明日!」

少しだけ寂しそうな顔をしてから、チルノは元の笑顔に戻って慧音に手を振り、踵を返した。

「ああ、またな」

去り行くチルノの小さな背中に声を掛け、慧音は玄関のドアを閉めた。
誰からも自分の表情が見えなくなったので、彼女はぎゅっ、と固く目を閉じる。まるで、祈るように。
急に息が苦しくなり、ドアを閉めた右手で胸の辺りを押さえた。

(……ごめんな、チルノ……それに、皆も……)

少し呼吸が荒くなる。視界が滲んでしまう前に腰を落ち着けようと、慧音は足早に廊下を歩いていった。

まだ僅かに夏の色を残すこの時期でも、午後八時を回れば幻想郷は夜の闇に包まれる。
窓から覗く満月は、恨めしいくらいの黄金色。ああ、本当に綺麗な満月だ。
そんな美しい満月を楽しむ事もせず、慧音は自宅の一室で立っていた。目の前には姿見。
そこに映る慧音の姿は、昼間までの彼女のものとは違っていた。

(……今頃、子供達は月見を楽しんでいるのだろうな……いい月夜で良かった。けど……)

頭からはまるで絵に描いたような角が二本、シンメトリーを体言するかの如く生えている。さらに背面、腰の下辺りからはふさふさの毛で覆われた尻尾。
―――満月の夜、上白沢慧音は白沢へと化す。

(……こんな姿、とても見せられない……)

慧音は鏡に映った普段とは違う己の姿を、まるで蔑むかのような目で見つめていた。
彼女は人間。少なくとも外見は、どこにでもいるような人間の女性。皆、そう思っている。それは子供達とて同じ。
もし、その普段から親しんでいる自分の先生が、こんなにも変わり果てた姿で目の前に現れたら?
慧音は怖かった。子供達がこの、人間基準で見れば異常としか思えない己の姿を見たら、何と言うのだろう?
どんな反応をするだろう?とても好意的な解釈を期待できるリアクションが望めるとは思えなかった。

(怖いに決まっている。昨日まで人間だった教師が、妖怪と何ら変わらない姿になっているのだから……)

泣かれるのは明白。明日以降の授業に、今まで通り来てくれるかも分からない。それ所か、自分が明日からも普通に里で暮らせるのかも。
現在はともかく、以前から妖怪は人を喰う存在。当然の如く恐怖の対象。それらから身を守るべく、人は集落を作って生活する道を選んだ。
その集落の中に、何食わぬ顔で妖怪が―――しかも、子供達と日常的に接する立場として混じっていた。
慧音自身がどんなに否定しようとも、子供達はきっと妖怪としての片鱗を見せた自分に恐怖するだろう。
恐怖は、最も人間の本能に根付いた感情。その圧倒的な負の感情の前には、どんな理性も脆く崩れ去るのだ。

(バレたら最後……私はもう、里では暮らせない。人々の優しさに触れる事も、子供達の笑顔を見る事も叶わない……)

実際に試した訳では無いが、慧音はそう確信していた。何としてでも、子供達の前では人間であり続けたい。
慧音は人間が好きだ。人里が、そこに住む人々が好きだ。そして、今の生活が大好きだ。
壊したくない。壊されたくない。ずっとこの穏やかな幸せを噛み締めながら生きていきたい。
多少の事に目を瞑ってでも、己が半人半獣の存在である事を隠し通す。それは何も子供達だけでは無くて―――

(……あいつも、私が人間じゃ無いと知ったらショックを受けるだろうな……)

新たな教え子、チルノにも。彼女自身が人ならざる存在ではあるが、慧音の事を人間だと思っているのは子供達と同じ。
『先生が一番すごい人間』と言って憚らないチルノが、慧音の人間ならざる部分を見てしまったら。
ますます、どんな反応をするのか分からない。だから、怖い。
気味悪がって慧音に近付かなくなるのかも知れない。
人間の慧音を喰うなり、呪うなりした妖怪だと思い込んで、全力で襲い掛かってくるのかも知れない。有り得る。チルノは正義感の強い子だから。
チルノに勉強を教える事は既に慧音の日常の一部。正直な話、楽しくてしょうがない。
少しずつ、少しずつだが成長を見せるチルノと共に笑い、喜び合うこの毎日。失いたくない。だから、嫌われたくない。
チルノにとって、ずっと”頼れる先生”でいたい。

(どうして、こんな姿になってしまうんだろうな)

泣きそうだった鏡の中の慧音が、自嘲気味に笑う。
思えば、どうしてワーハクタクになったのか―――慧音は、よく覚えていなかった。
歴史が好きだから、歴史を動かせる能力が欲しかったからなのか。
それとも、妖怪が跋扈するこの幻想郷で、自己防衛出来るくらいの力が欲しかったからなのか。
はたまた、運命の悪戯だったのか。
しかし、理由なんて今の慧音にはどうでも良かった。
確かにこの能力のお陰で、人間の状態でもそれなりの力を持てるようにはなった。歴史の編算作業という大役をこなせるのも、満月の夜に白沢になれるからだ。
それでも彼女にとって、この白沢と化した姿を肯定出来るだけの材料になるのかは疑問符が付く。

(……まあ、バレなければいいんだけどな……)

慧音は、姿見の前から離れて書斎へ向かう。これから、歴史のチェックと編算を行わなければならない。
その部屋から出る際、慧音は目元を軽く袖で拭った。誰かがいる訳でも無いのに、こっそりと隠すように。

師の走る月にはまだ早いが、それでも忙しい時は忙しい。
毎日の授業に追われる内、一ヶ月近くの時が流れていた。
夏の空気はすっかりなりを潜め、紅葉がそこかしこで見られる本格的な秋。
人間より多少長い命を持つ慧音でも、月日の流れる速さを実感せずにはいられなかった、そんなある日。

「先生、先生!」

その日の授業が終わった後、数人の子供達が慧音の下へ。

「どうした、宿題が物足りないか?もっと難しいプリントもあるぞ」

「えっ、やだよそんなの!」

「はは、冗談だ。で、何かな?」

本気で困った顔をした子供達に笑いかけてみせ、慧音は尋ねた。
すると彼等は胸を撫で下ろした後、再び笑顔になって言う。

「あのさ、明日また満月だからお月見やるんだけど……」

「今度は先生も来てくれるよね?ねっ?」

心からの期待を含んだその純粋な視線に射抜かれて、慧音の表情が固まった。
―――月日が流れる限り、その日は再びやって来るのである。

「あ〜、えっと、その……すまない、明日はまたしても大事な用がだな……」

「え〜、また?」

「今度こそ先生も来てくれると思ったのに」

今度は心からの残念そうな顔をする子供達。それを見る慧音の心はまるで、万力でぎりぎりと締め付けられるかのような痛みを発する。
出来る事なら行きたい。行って、子供達と一緒に綺麗な満月を眺めながら語らいたい。そんなささやかな願いも叶わない。満月の夜、慧音は妖怪になる。
こうして毎年、子供達の期待を裏切り続けなければならない己の運命を呪うしか出来なかった。

「本当にすまない。せめて……そうだな、この間は宿題免除だったから……色々準備もあるだろうし、明日は授業そのものを休みにしてしまおうか」

「わ、やった!」

「みんな、明日は授業休みだって!」

降って沸いた休日に子供達は歓喜し、教室中が歓声に包まれた。どうせ授業ペースは本来より速い、一度くらいの休校なら支障は無いだろう。
どうにか子供達に許してもらえたかと、慧音は笑顔で明日の計画を話し合う子供達の顔を見る。
実際はまだ詫び足りないくらいであったが、これくらいしか償う方法は見当たらない。

(……いつか私も、妖怪化を自由に制御できる日が来るのだろうか?)

そうなれば、自分も子供達と月見に行けるかも知れない―――だが、自分の命が果てるのとどちらが先か。
慧音は満月の日に一人でいる時の癖になりつつある、自嘲的な笑みを口の端に浮かべかけ、子供達がまだ教室に残っているので慌てて隠した。
それから、脳裏にチルノの顔を浮かべてみる。

(明日は休みになったし……たまには、少し早くから教えてやろうかな)

再び浮かべた微笑みを、慧音は隠す事をしなかった。自嘲的では無い、教師が生徒を想う時に見せる優しい笑みだった。

「先生、こんにちは!」

「いらっしゃい。さ、上がりなさい」

翌日、昼過ぎ。慧音の家の玄関で、チルノはいつものように慧音へ挨拶し、彼女もそれにいつもの言葉で返す。
靴を脱いで家へ上がり、廊下を並んで歩きつつ、チルノは横の慧音へ笑顔を向けた。

「昨日はいきなり先生が来るからびっくりしちゃったよ」

「すまないな、友達と遊んでる最中だったのに。今日は昼間が空いているから、こうしていつもより早い時間に授業を始めようと思ったんだ。
 以前授業を休みにしてしまったし、それを取り戻す意味合いも込めてな」

「そっかぁ、ありがとう先生」

その言葉通り慧音はこの日、普段寺子屋で授業を始める時間にチルノを呼んだ。
無論、夜になる前には家へ帰すつもりでいたが、それでも普段の授業よりは長く時間を取れそうだ。
二人は座敷で向かい合って座り、チルノは筆箱から鉛筆を取り出した。慧音はこの日のプリントや資料を用意する。
チルノが最初に『買ってもらった』と言っていたあの鉛筆は既に短くなりすぎて引退しており、今は別の鉛筆を使っている。
だが彼女は今でもその、小指の先程しかなくなってしまった鉛筆を”お守り”と称して大切に筆箱で保管していた。

(大切な友人に買って貰った物だから、捨てたく無いんだろうな)

授業初日の会話を思い出し、慧音はそんな事を考える。
チルノの準備が済んだのを確認し、彼女はプリントを彼女の前に差し出そうとしたが、その前に少し話しかけてみた。

「チルノ、勉強を始めて結構経ったが……どうだ、何か変わったか?勉強の成果がどこかで役立ったとか……」

「あっ、そうそう!聞いて聞いて!」

ぱっ、と顔を輝かせて、チルノが顔を上げた。

「こないだね、大ちゃんと買い物に行ったんだけどね、お金払うときの計算がすごく早いってほめられた!」

「おお、それは良かった。買い物なんかの金銭計算は、日常で最も接する機会の多い計算だからな。役に立ってるようで何よりだ」

「おつりがいくらなのかまで、ちゃんと計算できたんだよ!」

「テストなら満点だな。すごいじゃないか」

笑顔で慧音が言うと、チルノは嬉しさと恥ずかしさをない交ぜにしたようにはにかみ、顔を赤くする。
先生の褒め言葉は、生徒のモチベーションを上げる最高のエールなのである。
そんなチルノを微笑ましく思いつつ、慧音はここでやっとプリントを取り出した。

「今日は丁度算数だ。しかも、結構難しいぞ。いよいよ四桁の掛け算、割り算だ。筆算は必須の域……お前に出来るかな?」

「が、がんばる!」

まるで挑戦するような慧音の言葉を聞き、ぺちぺちと火照った頬を叩いて熱を冷ましてからチルノは顔を引き締めた。

「頼もしいな。じゃ、早速やってみようか。まずは自力だ……なに、今日は時間も沢山ある。焦る必要は無い」

その言葉と共に差し出されたプリントを眺めながら、チルノは鉛筆を握り直した。

授業に勤しむ二人は、まるで氷柱を火にくべたが如く、時間をとてつもない勢いで消化していった。
体感時間は短くとも、慧音の上手な教え方とチルノの勉強意欲は確かな効果を生む。

「……先生、どうかな?」

「どれ」

何度目か分からないプリントの提出。慧音は差し出されたそれを受け取り、目を通していく。
上の方の問題は既に正答済み。問題はプリント下部、最後の方の問である。
四桁の計算ともなればいくら計算力をつけてきたチルノでも苦戦は必死であった。
緊張の面持ちで慧音の横顔に視線を注ぐチルノ。と、慧音が顔を上げたのでチルノは軽く息を呑んだ。
慧音は赤鉛筆を手に取ると、正答を示す丸印をいくつか書き込んでからチルノを向いた。

「よし、合格だ。よく頑張ったな」

「よ、よかった……」

心の底から安堵した表情で、プリントを受け取りながらチルノは机にへたり込む。
慧音が時計に視線を走らせると、時刻は五時半。もうそろそろ暗くなり始める時間帯である。
チルノは知らないが、この日の慧音には暗くなる前にチルノに去って欲しい理由が存在するのだ。

「もういい時間だな、今日はこの辺にしようか」

「え、もう?」

チルノの言葉は二つの意味を含んでいた。気付けば夕方という驚きと、まだ勉強したいという希望。
慧音は頷いた。

「ああ。実感は無いかも知れないが、いつもよりもかなり長く勉強したんだ……もう疲れただろう。休んだ方がいい」

「ん〜、先生がそう言うなら」

以前同じような事を言われたのを思い出しつつチルノも頷いて、筆記用具を片付け始めた。
彼女が片付ける間、慧音は積まれた資料をごそごそと漁る。
やがてその中から一枚のプリントを取り出し、チルノへ示した。

「だが、お前の勉強意欲にはいつも感心させられるよ。そこで、今日は宿題を兼ねたテストを一つ出そう」

「テスト?」

チルノが聞き返す。

「ああ。内容は今までにやって来た計算問題全般だ。勿論、今日やった難易度の高い計算も入っているから少し難しいかもな。
 家でやって来て……そうだな、来週の今日までに提出する事。いいな?」

「うん、わかった!」

チルノは差し出されたプリントを受け取り、慧音に笑顔を向けた。

「あたい、がんばってすぐに解いちゃうからね!」

「楽しみにしてる……が、まああまり無理はするな。それなりの難易度があるし、焦って計算ミスでもしたら元も子もない」

慧音は苦笑しながら言ったが、チルノは頬を膨らませる。

「大丈夫だよ!」

「分かった分かった……じゃ、今日はここまでだ」

チルノを宥め、慧音は見送りの為に座布団から立ち上がった。
窓の外は、うっすらと闇のフィルターをかけたように薄暗くなり始めている。その内夜になるだろう。

「先生、ありがとうございました!」

再び笑顔になって元気に言うチルノの顔を見て、慧音は顔では笑いながらも胸がちくりと痛んだ。
早くしないと夜になってしまう。まるで急かすように慧音は廊下へ先に出た。

(見られる訳にはいかんのでな……すまない、チルノ)

慌てて廊下へ出てきたチルノと連れ立って、慧音は申し訳無い気持ちを抱えたまま玄関へ向かう。

―――それから。いつの間にやら日も暮れて辺りはすっかり闇一色。
里から離れ、辺りに殆ど住居の無い湖の周りでは、その暗闇が一層濃さを増す。
だが、そんな湖の周辺を僅かに照らす、数少ない光源。チルノの自宅。
そこまで明るくは無いにしろ、勉強をするのには十分なくらいの照明が灯る室内で、チルノは一心不乱に机に向かう。
慧音に様々な勉強を教わる前は、こんなに長時間机に向かうどころか、鉛筆で何かをひたすら書くという行為とは殆ど無縁だった。
それが今では、帰宅してからの三時間余りをずっとプリントとの格闘に費やしている。

「よし、あとちょっと」

ひとりごちるも、チルノの鉛筆を走らせるスピードは全く衰えない。眼前に聳える三桁の掛け算。筆算を書き込み、順番に計算していく彼女の鉛筆に迷いは見えない。
字を書くことすら覚束なかった彼女の成長ぶりは、きっと間近で見守ってきた慧音で無くともひっくり返って驚愕するレベルだろう。
次に待っていたのは四桁と三桁の組み合わせ割り算。一瞬戸惑いつつも筆算を利用して解き進める。

「ん」

不意に声を上げたかと思うと、彼女は傍らの消しゴムを手に取り、角の部分を器用に使って式の一部を消した。消しかすを払い、再び鉛筆を握る。
静かな室内に、チルノが鉛筆を走らせるカリカリという硬い音だけが響く。外からは微かな虫の音が、まるでエールを送るかのような合唱。
やや苦戦しながらも、それからさらに三十分も経てば、残す問題はあと一問となった。
最後に待っていたのは、”8556 + 1341 × 1771”。四桁の足し算と掛け算の複合式。チルノは慧音の教えを思い出す。

(足し算や引き算と掛け算なら、掛け算を先に……)

同じ間違いを繰り返さないよう、チルノは慎重に式を解いていく。どんどん増えていく位にも臆する事無く、彼女は鉛筆を走らせた。

”8556 + 2374911”

筆算で掛け算を片付け、残った数値同士の足し算。これも筆算だが、掛け算に比べればずっと楽だった。

”2383467”

その答えを書き終えた瞬間、思わずチルノは鉛筆を机の上に投げ出し、椅子に座ったまま天井を仰いだ。

「……おわったぁ!」

快哉を叫び、そのまま大きく伸び。数時間机に向かう事で凝り固まった背筋をほぐし、チルノは身体を戻した。
それから、目の前に置かれたプリントを眺める。自らの勉強の成果を文字通り刻み込んだ、努力の証。
モノクロのプリントが、今のチルノには何だか光り輝いて見えた。

「まちがって、ないよね……?」

彼女はそう言ってプリントをひっくり返す。目を通し、際立った間違いが無い事を確認する。
慧音が提出を一週間後に設定したのは、表裏にびっしりと問題が書かれているので、単純に全て解くのに時間が掛かるだろうと考えての事だった。
しかしそんな慧音の考えとは裏腹に、チルノはその日の内に全てを解き終えてしまった。
勿論、彼女自身の勉強意欲が成した偉業とも言えるだろう。だが、本当の理由は―――

(……こんなに早く解いちゃったんだもの。先生、きっとほめてくれるよね?)

―――”先生に褒めてもらいたい”。慧音からの賞賛の言葉が、チルノにとっての何よりのご褒美だった。

『もう出来たのか、凄いじゃないか!しかも全問正解だ……偉いぞ、チルノ』

目を丸くして驚いてから、笑顔で自分の頭を撫でてくれる慧音を想像するだけでニヤニヤと笑ってしまう。とても堪える事が出来そうに無かった。
明日にでも見せに行こう、と一旦は考えたチルノ。しかし、ふと壁の時計を見る。午後九時前。
本当は、今すぐにでも見せに行きたい。その日の内に問題を全て解いてしまったチルノを見たら、慧音はどんな顔をするのか―――それが待ち切れなかった。
夜も遅い時間だったので一瞬躊躇う。だが、慧音に早く褒めて欲しい思いが勝った。

(……先生、まだ起きてるよね?)

チルノは、軽く反動をつけて勢い良く椅子から立ち上がった。

「……ふぅ」

仕事が一段落した慧音は、軽く息をついた。それから軽く伸び。座っていた椅子が軽く軋んだ音を立てる。
しかし、それだけでは座りっぱなしだった身体の凝りは十分に取れない。慧音は立ち上がった。

(少し、休むか)

彼女はそのまま部屋を出る。とりあえず、とった体で居間へ。
お茶でも淹れようか、と思って台所へ向かいかけた慧音だったが、ふと気になって窓を見る。
歩み寄り、窓から夜空を見上げてみる。黒い画用紙を丸く切り取ったかのような、一際輝く満月。

(恨めしいくらいに綺麗だ。絶好の月見日和だが……)

その満月を眺めながら、慧音は自らの頭に生えた角に軽く触れてみる。固い感触が帰ってきた。
満月が綺麗なほど月見は盛り上がる。だが、満月だからこそ慧音は子供達の誘いを断らなければならない。何だか皮肉だった。

(あまり遅くならない内に帰り着いて欲しいものだが……夜遅くまで家の鍵を開けているのも危ないし)

「……あ!」

急に思い出したような顔をして、慧音は居間を出た。
廊下を玄関へ向かって歩いていくと、玄関の鍵が掛かっていなかった。

(すっかり忘れていた……人の事を言えないな。こんな失態、子供達には見せられん)

眠ってしまう前に気付いて良かったと安堵しつつ、苦笑い一つ。
慧音は施錠するべく土間へ下りた。そして引き戸に付けられた鍵へ手を伸ばしかけ―――


―――ドンドン!


刹那、響いたノックの音。慧音の手が、止まった。

(来客!?こんな時間に……)

焦った。ドアの向こうにいるのが妹紅なら問題は無いが、それ以外の人物なら―――開ける訳にはいかない。妖怪と化した姿を見られてしまう。
妹紅か、異変時に関わった誰かであってくれと慧音は願うが、どうやら運命の神様はそう甘くないようであった。
玄関に灯る照明に照らされ、木製の引き戸にはめ込まれたガラスの向こうに覗く来客の服装は、青。
彼女の知り合いで、そのような色合いの服を着ている人物はただ一人―――

「先生、起きてる?」

声が聞こえてきた。慧音の危惧していた最悪の事態。ドアの向こうにいるのは、今の自分の姿を最も見られたくない相手―――教え子。
驚きの余り、思ったままの言葉が口をついて出た。

「チ、チルノか!?」

言ってしまってから、慧音の顔がすっと青ざめる。やってしまった。チルノに、慧音が目の前にいる事を悟られてしまった。
鍵は、掛かっていない。こうなってしまえば、次の展開、そして自らの運命は容易に想像出来る。

「よかった、起きてたんだ」

ガラス越しに見えるチルノの影が動いた。どうやら、引き戸に手をかけたようだ。

「待ってくれ!開けな……」

慧音の言葉は、ガラリという引き戸の開く音で掻き消された。

「先生、こんばん……は……」

寸分の躊躇いも無くドアを開けたチルノ。しかし、目の前に立つ慧音の顔を見た瞬間、笑顔だった筈の表情は驚きに染まり、目を見開いた。
昼間と明らかに違う先生の姿。それを目の当たりにしてしまったのであれば、その反応は極めて正常なのかも知れない。
チルノは自らの知識に、そこまで自信が無かった。だが、彼女の知り得る限り、人間という生き物に角や尻尾は無い。

「……せん、せい……?」

チルノの呟きを、慧音は呆然としたままの顔で聞いていた。
これまでずっと隠してきた、自らが抱える秘密。それが、とうとう白日の下に晒される事となってしまった。よりにもよって、大事な教え子相手に。
ショックの余り思考が停止していた慧音だったが、その事実を少しずつ、少しずつ認識する。
見つかった。見つかってしまった。とうとうバレてしまった。人間で無い事が。
明日には里中に噂が広まるだろう。里で子供達に勉強を教え、その笑顔に達成感を感じる生活も、最早これまで―――


「う……うああああああああっ!!!」


頭中をパニックに塗り潰され、慧音は絶叫していた。立っている事もままならず、その場にうずくまる。
まるで頭を抱えるようにして、その手で角を隠そうとする。だがとても隠れ切らない。それすらも判断が付かない。
もう、何も分からなかった。ただひたすらに怖かった。震えが止まらなかった。

「せ、先生!どうしたの!?」

チルノが駆け寄る。だが、慧音は全く気付いていない。

「や……やめて……見ないで……」

まるで幽霊に怯える幼子のように、震える声で弱々しく呟くのみだった。
彼女の豹変ぶりに驚き、チルノはその肩を揺さぶりながら声をかけ続ける。

「ねえ、どうしたの!?」

「あ……ああ……」

反応は無い。ただただ肩を震わせ、何かに怯えたように呟きを漏らすだけ。俯いたその顔は赤く、固く閉じられた瞼には涙が滲んでいる。
普段の慧音からは想像も付かない、小さな姿だった。

「先生、先生ってば!」

「み、見ないで、くれぇ……」

「どうしたのってば!先生、せんせ……」

「いやだ……やだ……やめて……」

 

「――― 先生のばかぁ!!!」

 


夜の帳が下りた人里に、チルノの絶叫が木霊した。
すぐ頭上からの大声に、反射的に肩を竦ませ、慧音は顔を上げる。
教師としてそれなりの年月を過ごしてきたが、教え子に馬鹿と言われたのはこれが初めてだった。

「どうしてあたいの話を聞いてくれないの!?
 人の話はちゃんと聞きましょう、って教えてくれたのは先生でしょ!?先生がそれを守らないでどうするの!?しっかりしてよ!!」

「……! す、すまない……」

チルノは慧音の目を真っ直ぐに見つめ、とてつもない勢いで捲し立てる。
あまりに凄い剣幕に慧音は、思わず謝罪の言葉を口にしていた。それから、慌てて目元の涙を袖で拭う。
するとチルノは穏やかな表情に戻り、問いかけた。

「それ、どうしたの?」

”それ”とは勿論、慧音の頭に生えた角の事。彼女は呼吸を整えてから口を開いた。

「……チルノ。私はな……実は、人間じゃないんだ」

「人間じゃ、ない?」

鸚鵡返しのチルノに、慧音はゆっくりと頷く。渋々、といった体にも見える。

「ああ。正確には、半分しか人間じゃない。今日みたいな満月の夜に、私は白沢という妖怪に変身するんだ」

「………」

慧音の独白を、チルノは黙って聞いている。

「今まで隠してて、ごめんな。けど、お前が信じてくれてた先生は、人間じゃ無かった……これが事実なんだ」

その言葉の後半、慧音はぐっと何かを堪えるかのように目を固く閉じ、俯く。
それは、チルノの反応を覚悟したから。次に目の前の可愛い教え子から返ってくるのは、失望の言葉か、恐怖に掠れる息遣いか。


―――どちらでも、無かった。


「……へぇ、そうだったんだ。あたいの周りにそんな人いないからちょっと驚いちゃった。でね、先生……」

まるで至極当然の事とでも言うように頷き、自分の話を始めようとしていた。
慧音はこの日一番の驚きを見せ、思わず立ち上がっていた。

「ま、ま、待て!!どうしてそんなに平気でいられる!?」

再び大きな声を出した慧音に、チルノは首を傾げた。本気で分からない、といった表情で。

「どうしてって……?」

「だ、だってなぁ……人間だと思っていた者から、角が生えているんだぞ!?怖く無いのか!?気持ち悪く無いのか!?」

慧音は捲し立てた。妖怪である事がバレたら最後、もう二度と普通には接してくれない―――そう思っていたのに。
チルノの反応があまりに”普通”だった事が、慧音には信じられなかった。
するとチルノは、その場でくるりと一回転してみせる。

「そんなこと言ったら、あたいにだって羽が生えてるよ」

彼女は妖精なのだから、当然の如く羽が生えている。氷のような羽がはためいて、小さな結晶を撒き散らした。
再び慧音に向き直ったチルノは、途端に今まで見せた事が無い程に絶望したような表情になる。ひたすらに悲しく、今にも泣き出しそうな顔。
それから、ぽつりと呟いた。

「……もしかして、先生は……あたいの事、ずっと気持ち悪いって思ってたの?」

それを聞いた慧音に、まるで大槌で頭を殴りつけられたかのような衝撃が走る。

「……な……」

次の瞬間、慧音は再び膝を着き、思わずチルノの両肩を掴んでいた。

「ば、ば、馬鹿な事を言うなッ!そんな訳は無い!!お前が気持ち悪いだなんて……そんな事あるものか!!」

そんな事、微塵も考えた事は無い。だから慧音は全力で否定してみせた。
すると、少しずつチルノの表情も明るさを取り戻していく。

「……ほんとに?」

「ああ、本当だ!私は、お前の事を悪く思った事なんか一度も無い!絶対にだ!!」

慧音の真剣な眼差しを受けて、チルノはようやく笑顔を見せた。

「……えへへ、よかった」

「ああ……それにしても、どうしてそんなに動じない?最初は少し驚いたようだったが」

胸を撫で下ろしつつも、慧音は尋ねてみる。
するとチルノは、さも当然の如く言ってのけた。

「だって、先生は先生でしょ?人間でも、半分だけ人間でも」

「あ、ああ……それは、そうだが……」

どこか納得出来ず、慧音は言葉を濁す。しかし、チルノはそれを意に介さず続けた。

「それにさ、そのツノ……かっこいいじゃん!」

「……はぁ!?」

思ってもみなかった言葉が飛び出した。彼女の言葉が信じられず、慧音は顎が外れそうなくらいに口をあんぐりと開ける。

「だってさ、すごく強そうだよ。それで悪い奴を思いっきり刺したりとかさ。まるで正義の味方みたい!
 さいきょーを目指すあたいとしては、ちょっとほしいかも……あれ、先生?」

またしても慧音が押し黙ってしまったので、チルノは首を傾げた。

(……この子は……)

―――全く、信じられなかった。
白沢と化した己の姿。人間としては明らかに異形の姿。
人が見たら、当然の如く怖がったり、気味悪がったりするだけだと思っていた。
嫌われたく無かったから、隠していた。なのに、目の前の氷精はどうだ。
多少驚きこそすれ気味悪がる事も無く、『先生は先生だ』と言って憚らない。まるで意に介した様子が無い。
それどころか、『かっこいい』とまで言ってのけた。この姿を恐れでも嫌悪でも無く、プラスに捉えられたのは初めてだ。

「……チルノ……」

ふつふつと湧き上がる感情に任せるまま、慧音は腕を伸ばして、チルノのその小さな肩を抱き寄せた。

「わっ」

いきなり抱き締められたチルノは驚いた声を上げたが、すぐに静かになる。妖怪になっても、その身体は温かい。
ずっとこうしていたかったが、チルノのくぐもった声が聞こえてくる。

「……せんせ、くるしいよ……」

「……あっ、ああ。すまない」

どんどんと背中を叩かれ、慧音は我に返った。どうやら愛しさの余り、力を込めすぎたようだ。

身体を離し、慧音は改まった様子でチルノに尋ねる。

「お前の用件を聞くのを忘れていたよ……長い前置きですまなかった。どうしたんだ、こんな夜遅くに」

するとチルノは思い出したようにポンと手を打ち、土間に落ちていたプリントを拾い上げた。

「そうだ、これ……」

差し出された紙を受け取った慧音は、それを視認した瞬間目を見開いた。

「これ……今日の宿題じゃないか。まさか、もう終わったのか!」

「う、うん……帰ってからずっとやってて、なんとか」

彼女の言葉に、チルノは控えめに頷く。
すると慧音は、興奮した様子でチルノの頭を撫でた。

「本当か、凄いじゃないか!良く頑張ったな!」

そう褒める彼女の顔は満面の笑顔。まるで、先程までの出来事などすっかり忘れてしまったかのような。
予想以上に慧音が反応したので、多少は褒めてもらえる事を期待していたチルノも顔を真っ赤にして俯いてしまう。
髪の毛越しに伝わってくる慧音の温かい手の感触に、思わず笑みが滲み出た。

「きちんと裏面までやってあるな……よしよし」

「あ、あたいね……がんばったんだよ、すごく」

チルノが恥ずかしそうにしながらも言うと、慧音は笑顔を崩さぬまま頷いてみせる。

「ああ、分かってるよ。この答案を眺めているだけで、お前のこれまでと、今日の努力が伝わってくる」

回りくどい言い回しを使わない真っ直ぐな褒め言葉。チルノは当分顔を上げられそうに無かった。
暫くチルノの頭を撫でていた慧音は、改めて手にしたプリントを示してみせる。

「さて、せっかくだから今から採点してみようと思うんだが……見ていくか?」

「う、うん」

チルノが頷いたので、慧音はそっと玄関の引き戸を閉めた。
ようやく顔の火照りが収まってきたチルノと肩を並べるようにして、玄関から廊下へ。

「ねえ先生、そのツノなんだけど」

歩きながら、チルノは興味津々といった様子で、慧音の頭から覗く角を見て口を開いた。

「ん、これがどうかしたか?」

慧音が質問に答えてくれる様子を見せたので、チルノはどこか興奮した様子で続けた。

「もしかして……そっから、カミナリとか出せるの!?カミナリ!」

「第二の故郷、人里を私は守ってみせる!!くらえ、ハクタク・サンダーッ!!

 ―――って、出る訳無いだろう。先生をからかうんじゃない」

わざわざ立ち止まって、勇ましいポージングまでつけてのノリツッコミ。
乗ってくれた事が嬉しかったらしく、チルノは笑顔だ。

「あははは。だってさ、ロボットはツノからカミナリを出すものだ、って聞いたから」

「私は半獣であって、半機械……サイボーグ?では無いんだが……誰から聞いたんだんだ、そんな事?」

「早苗からだよ」

「……はぁ」

どうやら外の世界の知識らしい、と慧音は脳内で結論を出して苦笑い。
そうこうしている内にいつも授業をする座敷までやって来たので、慧音は部屋の照明を点し、用意された座布団に座る。
チルノもその向かいに座り、筆記用具を準備する慧音の様子を眺めている。

「それじゃ、採点するぞ……楽しみにしてるからな」

「だ、大丈夫だと思う……たぶん」

「多分か、そこは絶対の自信を持って欲しい所だがな」

「だって……」

「ははは。だが、私は信じているよ」

緊張の色を隠せないチルノをよそに慧音は笑ってみせ、赤鉛筆を手にしてプリントをチェックし始めた。
静かな部屋に、時折鉛筆を走らせる硬い音だけが響く。二人は無言だ。
敢えて採点中の慧音の手元を見るような事はせず、チルノは部屋のあちこちを落ち着き無く見渡している。
やがて、慧音がプリントをひっくり返す音がした。半分が終わったらしい。

(………)

高まる緊張に思考も凍結し、いつしかチルノは押し黙ったまま机の上の一点を眺めていた。
難しい問題が増えたからか、鉛筆の音の間隔も長くなってきている。間違いがあるとすれば、この辺りだ。
実際は十分かそこらなのに、今のチルノにはこの採点作業が何時間にも感じられた。

「……終わったぞ」

不意に声を掛けられ、チルノはびくりと肩を竦ませた。
見やれば慧音が、採点の終わったらしきプリントを手に彼女を見ている。

「……ど、どう?」

飛び跳ねる心臓を押さえつけ、チルノは真っ直ぐに彼女の目を見て尋ねた。
慧音は真面目な顔でチルノを見ていたが、一度プリントに視線を落とす。
そしてもう一度チルノの顔を見て―――笑った。

「―――満点だ!!」

一瞬、慧音の言った言葉が未知の言語にすら聞こえた。

「えっ!?」

反射的に口をついて出る驚きの声。慧音は黙って、机の上にプリントを差し出す。
赤鉛筆でそこここに描かれた正答を示す円、そして上部には、確かに”100”の数字が燦然と刻まれていた。

「……う、うそ……」

「嘘?いつか言わなかったか……私は、人をがっかりさせる嘘はつくなと教えていると」

ふふん、と笑う慧音。状況を理解出来ていなかったチルノも、プリントを眺める内に段々と胸の奥が熱くなるのを感じた。

「……やった、やった!!先生、あたいやったよ!!」

喜びに任せて慧音に飛びつくチルノを、彼女は何とか抱き止めてやる。

「おっと!いきなり危ない……と言いたいが、気持ちは分かる。おめでとう、チルノ。私も嬉しいよ」

自分の腕の中で嬉しそうに笑っているチルノを見ていると、慧音も笑わずにはいられないのだった。

 

(―――お前は私の誇りだよ、チルノ)

 

―――その日の翌日には、まるで何事も無かったかのようにチルノとの個人授業を進めていった慧音。
勿論寺子屋の方だって忘れてはいない。子供達から嬉しそうに語られるお月見の感想を笑顔で聞いていた。
いつもの教師生活を続ける内、さらに一ヶ月近くが経過した―――そんな、ある日。

「先生、先生!」

授業が終わった後、数人の子供達が慧音を取り囲む。覚えのあるシチュエーション。

「丁度良かった、追加の宿題がだな……」

「えぇぇっ!?」

「冗談だ」

本気で驚いた様子の子供達に慧音は笑いかける。

「もう、やめてよ先生。授業の後に先生とお話する度に、寿命が縮んじゃうよ」

「悪かった悪かった……で、何用かな」

本当に寿命を縮められたら堪らないと慧音は陳謝し、話を促す。

「そうそう。明日さ、満月だからまたお月見やるんだけど……」

切り出された話に、やはりか、と慧音は心の中で頷く。

「段々寒くなってきたし、もうすぐ冬だから……明日が今年最後だって」

「だから、先生……来てくれるよね?」

子供達の懇願するような視線を一身に受ける慧音。彼女は少し間を置き、考えるような素振り。
やがて、固唾を呑む子供達にゆっくりと頷いてみせた。

「……ああ、明日は大丈夫だ。私も一緒に行けるよ」

「本当に!?」

「みんな、明日は先生も来るって!」

「やった!」

瞬間、顔を輝かせて、残っていた生徒に声を張る子供達。その言葉に、教室中が湧き上がる。
一ヶ月前、授業を休みにすると宣言した時よりも大きな歓声だった。
自分が行くと宣言しただけで大喜びの子供達を見て笑顔を浮かべつつ、慧音は脳裏にチルノの姿を思い描く。

(……私は私、か。お前が言っていた言葉、信じてみるよ)

―――その日の夕方、チルノとの授業にて。
授業が一段落した所で、慧音は彼女に話しかける。

「……チルノ、すまないんだが……明日は、また授業を休みにしてもいいか?」

「なんで?」

鉛筆を転がす手を止め、首を傾げたチルノ。慧音は一度深呼吸してから、意を決したように言った。

「実はな……決心したんだ。明日、子供達にもあの姿を見せようと思う」

「え、本当に?今までずっと隠してたんじゃなかったっけ」

驚いた様子のチルノ。チルノに正体を見られたあの日に、今まで周りの人々にも内緒にしていた事、今はまだ口外しないで欲しい事も慧音は伝えていた。
頷き、彼女は言葉を続ける。

「ああ。あの日お前が言ってくれた言葉で、少し目が覚めた気がするんだ。
 容姿が多少変わろうと、私は私。上白沢慧音という名の教師だ。きっと子供達も、分かってくれる」

それから、彼女は満月になる明日、お月見で子供達に妖怪と化した姿を見せるつもりである事を話した。

「そういう訳なんだ、が……」

「どうしたの?」

歯切れの悪い言葉にチルノが尋ねると、慧音は苦笑いを見せた。

「ん……まあ、本当はちょっと怖いんだ。お前が言ってくれた事は信じてるが、それをどう受け取るかは子供達次第だからな」

「………」

何やら考え込む様子のチルノ。慧音はポンと手を打ち、再び口を開いた。

「そうだ、チルノ。お前も明日来るか?」

急なお誘いにチルノは少し戸惑った様子を見せ、少し考えてから言葉を返した。

「ん、ん〜……まだわかんないや」

「そうか。私達は多分、里を出て少しの所にある丘でやっているだろうから、興味があれば見に来てくれ。私も、七時くらいにはいるだろう」

「うん……」

チルノは小さく頷く。
慧音は、彼女に教えるのが個人授業という形になっている理由―――人間の子供達の中にいきなり妖精を混ぜる事への不安も拭い切れてはいなかった。
だが、何も誘わないのはもっと良くないと思い、思い切って尋ねたのだ。返事は微妙な様子だったが。

「じゃあ、そろそろ続きをやるぞ。今度は抜き打ちテストでも……」

「えっ、ちょ、待ってよ!!」

まだ何か考えている様子のチルノだったが、慧音の言葉に驚き、顔を青くする。

「冗談だ。お前も子供達と同じ反応をしてくれて面白いな」

「もう、先生のばかー!」

「古人曰く、馬鹿と言った方が馬鹿……まあ、この場合は私が悪いんだがな」

頬を膨らませるチルノを落ち着けるように、慧音はまた笑う。
満月を翌日に控えたこの日の授業も、いつも通りに進んでいった。

翌日、午後七時前。慧音はまだ自宅にいた。その姿は既に白沢と化している。
いつもなら満月の日は外へ一歩も出ようとはしない彼女だが、この日は違う。
姿見で己の姿を二度、三度と確認してから、彼女は裏口からそっと家を出た。見上げれば満天の星空と、満月。
子供達に会う前に騒ぎにはしたくなかったので、他の人間に見つからぬよう里の外へ。少し回り道をしてから、彼女は丘へ向かう。
月明かりに照らされた草原。遠くに多数の小さな影が見えた。

(いよいよ、か……)

決心したとは言っても、長い間の秘密を公にするというのはやはり緊張するものであって、中々足が動かない。
それでも竦む足を少しずつ前へ出し、丘へ。子供達一人ひとりが誰なのか視認出来るくらいの距離。チルノの姿は無かった。
予めこの日の引率は妹紅に任せてあり、その姿も見える。しかしきちんと子供達の面倒を見ながらも、彼女の様子はどこか落ち着きが無い。
やはり、親友の一大決心の場を見届けるとあっては平常心ではいられないのだろう。

(よし、行くぞ……!)

深呼吸をしてから、慧音はその足を一気に前へと踏み出した。
まだ後戻りは出来る―――そんな雑念を振り払うかのように、大股で足早に子供達の方へ。
そして、声を張った。


「皆、待たせたな!」


一斉に子供達が慧音の方を向いた。月明かりに浮かぶシルエットは、彼等にとって見慣れた慧音の姿とは明らかに異なるもの。
一寸前まで騒いでいた子供達は、その姿を見た瞬間一斉に静かになる。半ば驚きを含んだような表情で慧音を見つめていた。

(……さあ、どうだ……)

慧音は何かに耐えるように奥歯を噛み締める。驚くのは当たり前、問題はここからだと思っていた。
怖がられてしまう前にとにかく事情を説明しようと、彼女は口を開く。

「驚かせてしまってすまない。その、実はだな……」

―――その時だった。

 

「わっ、本当に先生にツノがあるよ!」

「本当だったんだ!」

「すごい!」

「見せて見せて!!」

 

まるで明日のテストが中止になったという報告を聞いたかのように、湧き上がる歓声。慧音に駆け寄る子供達。

「……なっ……?」

事態を認識出来ず、慧音はたじろいだ。これから子供達に自分の正体を明かし、その上で理解を請うつもりだったのに。
まるで慧音が半人半獣である事を知っているかのような口ぶり。訳が分からなかった。
あっと言う間に子供達に取り囲まれる慧音。彼等は口々に質問を浴びせた。

「すごく強そう!」

「それで悪い奴らをやっつけちゃうんでしょ?さすが先生!」

「そこからカミナリ出せるって本当!?」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ!」

堪らず、慧音は待ったを掛ける。

「な、なあ……どうして驚かないんだ?というより、まるで私がこの姿でここへ来る事を知っているような物言いじゃないか」

ありのままの疑問をぶつけると、子供達は笑顔でそれに答えた。

「あのね、先生が来る前に知らない女の子が教えてくれたの!先生は満月の夜に『はくたく』っていうものすごく強い妖怪に変身できるんだって」

「それで、いつも里を狙ってくる悪いやつらを退治してくれてるって!里に人を食べちゃう妖怪が来ないのは、先生のおかげだったんだね!」

慧音にとって覚えの無いその話を、微塵も疑わない様子で口にする子供達。まさか、と思い、慧音は再び尋ねた。

「なあ、その知らない女の子って……青い服を着た?」

「そうだよ!それに、おっきなリボンしてたかわいい子!」

「先生のお友達?」

―――もう、間違い無かった。
慧音の英雄譚を子供達に作って聞かせ、彼女の白沢と化した姿を肯定的に捉えさせようとした”女の子”。

(――― チルノ……!)

彼女は近くにいた妹紅に目配せ。すると、彼女も笑って頷いた。その通りだ、とでも言うように。

「先生、いつもありがとう!」

「私達の前にその姿で出てこなかったのも、ヒーローは正体を見せちゃいけないからなんでしょ?」

「ねぇねぇ、カミナリ出してみてよ!」

「それよりも、今までどんな奴らと戦ったの?」

勇姿を見たがる者、彼女の活躍を聞きたがる者、お礼を言う者、背伸びして彼女の角に触れようとする者。
それぞれ興味のベクトルは違えど、おしなべて子供達は妖怪と化した慧音の姿に全く恐れを抱いてはいなかった。

(……ああ……)

慧音は、自らが何故半獣の身となったのかよく覚えていない。しかし、今なら分かる気がする。


(この妖怪の力は……もしかしてこの子達のように、大切な人を守る為のもの、なのかもな……)


今、慧音の目の前に溢れる笑顔。何者かにこの笑顔が壊されないよう守る為に、慧音は妖怪の力を得たのかも知れない。
―――いや、違う。これから、その為にこの力を使うのだ。
妖怪となった慧音を子供達のガーディアンへと仕立ててくれたチルノを、嘘つきにしない為に。
口々に質問や要望を言ってくる子供達にどう対応していいか分からず、口ごもっていた慧音。しかし視界の端に覚えのある姿を捉え、口を開いた。

「……チルノ!」

子供達も彼女が声を向けた方向を見やる。多数の視線を向けられて、大きな木の陰にこそこそと隠れていたチルノが観念したように姿を現す。

「あっ、先生!あの子が教えてくれたんだよ!」

一人の子の証言により、慧音の確信は真実へと変わった。
恥ずかしいのか、木に身体を半分隠すようにするチルノに、慧音は手招きをした。

「そんな所にいないで、こっちへ来なさい。せっかく綺麗な満月なんだ、隅にいてはもったいないぞ」

するとチルノも小さく頷き、小走りで慧音の元へ。子供達もそれを笑顔で出迎える。

「チルノちゃんっていうの?」

「よろしくね!」

「わ、羽みたいなのがある!」

好奇心の塊のような子供達に囲まれつつ、寄せられる質問に答えていくチルノ。恥ずかしいのか顔を赤らめながらも、どこか楽しそうだ。
こうして再開されたお月見は、慧音とチルノのお陰で今年最後に相応しい盛り上がりを見せた。
その最中、慧音はぼけーっと満月を見上げていたチルノを呼び、一言耳元で囁く。

「ありがとう、チルノ」

するとチルノはまたも恥ずかしそうにはにかみ、それから同じく慧音の耳元に口を寄せた。

 

「……こういうウソなら、ついても先生は怒らないよね?」

 

慧音は黙って笑顔を見せ、チルノの頭を優しく撫でてやった。

―――その年最後のお月見が終わり、その翌日。
その日の授業が終わった慧音は、これまで通りにチルノを家に招いて個人授業を行う。
だが、チルノとの授業が終わった後、筆記用具を片付けるチルノに慧音は声を掛けた。

「なあ、チルノ」

「なーに?」

持っていた鉛筆を筆箱へしまう手を止め、彼女は聞き返す。
慧音は昨日からずっと思っていた事を口にした。

「よく聞いてくれ。結構長い事続けてきたお前とのこの授業を……今日で、おしまいにしようと思う」

「……えぇっ!?」

悲鳴のようなチルノの声に、カラン、という乾いた音が重なる。チルノが持っていた鉛筆を取り落としたのだ。

「な、な、なんで!?あたい、何か悪いことしたっけ……やだ、もっと勉強したい!悪いことしたならあやまるから!」

その顔にありありと焦りの色を浮かべるチルノに、慧音は笑ってみせる。

「そうまで言ってくれるのは本当に嬉しいんだがな……まあ、私の言い方が悪かったようだ。すまない。
 正確には、こうしてお前とマンツーマンで授業をするのはおしまいにしよう、という事だ」

「……へ?」

一転、意味が分からないのか呆けた表情になるチルノ。
苦笑いを噛み殺し、慧音は口を開いた。

「つまりだ、チルノ……」

―――翌日、午後一時。
がやがやと騒がしい寺子屋の教室。しかし教壇に慧音が立つと、途端に教室内は静まり返る。
挨拶と出欠確認を手早く済ませた所で、慧音は教室中を見渡して言った。

「さて、それでは今日の授業……の前にだ。今日は皆に、新しい友達を紹介するぞ!」

瞬時にざわめく教室内。慧音はパンパンと手を叩いて静まらせる。

「まあ待て、今呼ぶ。それじゃ、入りなさい!」

ドアに向かって声を呼びかける。すると教室のドアが開き、小さな影が飛び込んできた。

「あっ!」

一人の子供が驚きの声をあげ、それに連鎖するかのように再び教室中がざわめく。
それはそうだろう。入ってきた人物が、見覚えのある相手だったのだから。

「はいはい、静かにしなさい!皆ももう知っている相手だろうが……改めて紹介するぞ。それじゃあ、自己紹介を」

慧音に促され、少し恥ずかしそうだったその少女は顔を上げ、元気に声を張った。

 

「はじめまして、あたいはチルノ!妖精だけど、がんばって勉強するからよろしくね!!」

 

少女――― チルノの自己紹介に、三度教室中がざわめいた。今度はそこここに歓声も混じっている。
『個人授業をおしまいにする』というのは、こういう事だったのだ。
慧音は先日の子供達の反応を見て、確信した。チルノを子供達と共に学ばせても大丈夫だと。
白沢と化した慧音にも、妖精であるチルノにも分け隔てないどころかますますの興味を持って接する子供達なら、きっとチルノと一緒にやっていけると。
チルノ自身も、勉強を始めた当初から夢見ていた『大勢と一緒に授業を受ける』という夢がとうとう叶うとあって大層喜んでいた。
自分自身の抱いていた不安が杞憂に終わり、慧音は胸を撫で下ろすと同時に希望のようなものを垣間見た気がした。
自分が妖怪と化した姿でも大手を振って表を歩ける日は、そんなに遠くない。

「それじゃあ、チルノの席だが……」

するとあちこちから手が上がる。

「僕のとなりの席に!」

「私のとなり!」

「チルノちゃん、ここ、ここ!」

皆が皆チルノを招きたいらしく、誘いの声は止みそうに無い。

「はは、大人気だな」

目を白黒させるチルノに慧音が囁くと、チルノは顔を真っ赤にしてしまった。
結局、生徒全員の壮絶なジャンケン対決の末、チルノの席は廊下側、前から三番目の女の子の隣に決定した。

「よろしくね!」

「うん!」

小声で挨拶を交わす女の子とチルノ。そんな二人を見て満足そうに頷いてから、慧音は言った。

「チルノは暫く私との授業を個別に受けていたから、今の皆とそう変わらないくらいの知識を持っている。
 油断していたら、すぐに追い抜かれてしまうぞ?さらなる精進を目指すように!」

「はーい!」

一斉に手が上がり、元気な返事。その中には勿論チルノの声も含まれている。

「よし、それじゃあ早速授業に入ろうか!今日は国語……いつしかの続きで、諺について学ぼうか」

言いながら慧音は振り向き、チョークを手にして黒板へ向かう。
何やら字を書き込んでいき、書き終えた所で振り返って、今書いたばかりの言葉を示した。

「最初に紹介する諺はこれだ。いつも私が教えている事だな」

子供達とチルノは、黒板に書かれたその諺と一斉にノートへ書き写した。

 

”嘘も方便”

 

―――彼女の名は、上白沢慧音。人里に住居を構え、寺子屋を開いて人間の子供達へ学を授ける事を生業とする。
彼女は、二つの心を持っている。
一つは、子供達を優しく導く人間の心。

 

―――そしてもう一つは、子供達の笑顔を護る、白沢の心。



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