―――深い、深い森の中の一軒家。

「―――500……550……600メートル。うん、順調順調」

薄暗い室内で、一人の少女が目を閉じ、何やら神経を集中させていた。
人形師―――アリス・マーガトロイドだ。
彼女は今まさに、人形の遠隔操作魔法の実験を行っていた。
元より近くの人形を糸も使わず操る事が出来、弾幕だって張る事の出来るアリスであったが、彼女はそれでは満足しなかった。
そして苦心の末、ある程度遠くまで人形を操り、動かす事の出来る魔法を開発したのだ。
その実験第一号として、彼女の一番のお気に入りである上海人形に魔法をかけ、とにかく遠くへ飛ばしていた。
外は落ちてきそうな曇天だったが、今の彼女は魔法を完成させた喜びでそれどころでは無い。

「もうすぐ1kmね。良かった、実験は成功かしら」

安心したようにアリスが呟く。既に上海人形は森を出て、大分家から離れている。
だがその時、不意に窓の外からゴロゴロと、猛獣を思わせるかのような唸り声。

「やだ、雷?そろそろ上海を……」

流石に心配になったアリスだったが、瞬間、激しい稲光が室内を塗りつぶした。

 

―――ドガァァン!!!

 

「きゃっ!?」

間髪入れずに爆音が轟き、驚いたアリスは思わず小さな悲鳴。相当近いようだ。
だが、高度な魔法、それも習得したばかりでは、ちょっとした事で簡単に解けてしまう。
雷に驚いたショックで、上海人形に向けて継続的にかけていた操作魔法が乱れ、アリスは慌てた。

「やだ、魔法が……!」

気付けば、窓の外は凄まじい暴風雨。吹き荒れる強い風が窓枠を軋ませ、横殴りの豪雨が際限無く窓を打ち付ける。
魔法で遠隔操作しているとは言え、アリスと人形は一心同体とも言える。多少離れていても、人形の状態は魔法をかけている限り分かる。
―――そして、アリスは確かに感じた。強い風に煽られ、小さな上海人形がバランスを崩し、飛ばされるのを。

「!? 飛ばされ……」

風で飛ばされた事によって、さらに遠くまで離れた事か。天候と共に、コンディションも崩れたか。はたまた、アリスがまだ未熟だからか。
理由はどうあれ、一つの事実がそこにあった。アリスにとって、最悪の出来事。


―――上海人形からの信号が、途絶えた。遠隔操作魔法が解けたのだ。もう、上海の状態も分からない。どこにいるのかも。


「……上海?嘘でしょ!?返事して!!上海……上海ッ!!」

アリスの悲痛な呼びかけが薄暗い室内に反響するが、どんなに大声で呼んでも、その呼びかけが届く事は無い。
ひとしきり上海の名をひたすらに呼び続け、アリスは不意に立ち上がった。その顔は青ざめ、今にも泣き出しそうだ。
彼女はそのまま家を飛び出し、吹き荒れる暴風雨の中に身を投じた。勿論、上海人形を探す為。
あっという間に服が濡れていく事もいとわず、アリスは森を駈けた。ただ、愛する人形が見つかる事だけを祈って。

「上海、返事して!!お願い!!」

アリスの声は一瞬だけ森に響いて、すぐに激しい雨音に掻き消されてしまった。

「―――わぁ、すっかりいい天気だ」

窓を開けると、雨上がり独特の土の匂いが伝わってきた。
湖のほとりに立つ一軒家。開け放たれた窓から顔を出し、雲一つ無い青空を見上げるのは、湖に住む大妖精。
昨日の夕方から夜中まで猛威を振るった嵐も過ぎ去り、後には綺麗な晴天が広がっていた。
まるで絵葉書のような光景に気分の良くなった大妖精は、身支度の仕上げ―――トレードマークの黄色いリボンで髪を括り、玄関のドアを開けた。

「せっかくいい天気なんだし、お散歩でもしようっと」

晴れ渡った空の下を思いっきり滑空するのもいいが、何となく今日は自分の足で歩きたい気分だった。
見上げると、やっぱり青空。照りつける陽光の眩しさに目を細め、大妖精は歩き出した。

(湖の周りを一周してみようかな)

そう思い立ち、大妖精は湖に沿って歩く。
草の上は問題無いが、土が露出している部分はかなりぬかるんでいる。滑ってしまわぬよう気を配りつつ、彼女は歩を進めた。
湖は普段、生まれ持った羽で飛び越えてしまう。けれど、自分の足で散策すると、飛ぶのとはまた違った景色が見えてくる。
歩いていては湖の湖面が見せる表情が少し見辛いけど、飛んでいては、草の間から不意に飛び出すカエルに出会う事は出来ないのだ。

「いいなぁ、散歩って。羽があるけど、足も一緒にあってよかった」

すっかり上機嫌の大妖精はそんな事を呟き、思わず微笑む。昨日の大嵐は、晴れと一緒に笑顔を持ってきてくれたのかも知れない。
そんな事を考えていた彼女だったが、ふと足を止めた。

「……ん?」

彼女の視線の先には、いくつか大き目の石がごろごろと落ちている。
石が落ちているだけなら、足を止めてまで凝視はしないだろう。だが、そこには明らかに石では無いものが落ちている。

「……お人形?」

駆け寄り、大妖精は石に引っかかっていたらしいそれをしゃがみ込んで観察。
それは、嵐の影響かびしょ濡れではあったが、何とも可愛らしい人形。


―――そう。嵐で行方不明になった、あの上海人形だった。


「かわいそうに、誰かが捨てたのかな……」

呟き、大妖精は上海人形を優しく抱き上げる。持ち上げた時に、上海の着ているスカートの端から水滴が落ちた。
この分だと、嵐が止むまでずっと雨ざらしだったようだ、と大妖精は分析した。
それと同時に、昨日の嵐を思い出す。凄まじい豪雨と、激しい暴風。そして雷。
大妖精は、あの恐ろしい自然現象の真っ只中に一人ぼっちで、ひたすらに耐える人形の姿を想像してみる。

「……うち、来る?汚れちゃったし、洗ってあげるね」

そうすると、感情豊かな妖精である彼女は激しく感情移入。相手は物言わぬ人形であるというのに思わず話しかける。
返事は当然返って来ないが、大妖精は気にせず人形を抱きかかえて家へ向かった。
抱いたまま帰る途中、上海人形の服がたっぷりと含んだ雨水が大妖精のワンピースの胸元に大きな染みを作ってしまったが、彼女は意に介さない。

(これぐらい平気。この子はあの大雨をずっと耐えてたんだもの)

思わぬ形で散歩から帰還、家に帰り着いた大妖精はまず、上海人形の服を脱がせる。
雨で濡れただけでなく、よく見ると上海人形の服には結構泥も跳ねており、洗う必要がありそうだったからだ。
相手が動かないので若干苦戦しつつ、大妖精はどうにか上海人形の服を全て脱がせ、洗い物用のカゴへ。
ふう、と一息ついてから、大妖精は目の前の上海人形が裸である事に気付き、大慌てで大き目のタオルを持ってきた。

「ごめんね、裸じゃ恥ずかしいよね。これでいいかな……」

上海人形の体をタオルでくるみ、大妖精は上海人形に陳謝。相手は人形であると分かってはいるが、この辺は性格だ。
それから彼女は、上海の髪を結んでいる大きなリボンに目をつけた。どことなく親友のチルノを彷彿とさせる、可愛らしいデザインの大きなリボン。
よく見れば、そこにも多少の泥が跳ねており、さらにその汚れは髪にまで及んでいた。

「そうだ、頭洗ってあげる」

大妖精はまず上海のリボンを外してカゴに入れ、それから上海を抱きかかえて洗面所へ。
洗面器に水を張り、そこで上海のやや長い髪を泳がせた。それから、あくまで優しい手つきで梳くように髪を洗ってやる。

(きれいな髪。人形じゃないみたい……)

指通りの良い上海の髪を洗う内に大妖精はそんな事を考えた。捨てられる前は、よく手入れされていたのかも知れない。
ある程度水で洗った所で大妖精は石鹸を泡立て、これまた優しく上海の髪を洗い始めた。
すぐに辺りを石鹸のいい香りが漂い、自然と大妖精も笑顔を見せる。

「気持ちいい?」

何気なく、大妖精は上海に尋ねてみる。返事はやはり無い。
しかし、気のせいかも知れないが、上海が嬉しそうな顔をしているような気がして大妖精は、

「ありがとう」

何となくお礼を言ってみた。
再び洗面器に水を張って、上海の髪に広がる石鹸の泡をそっと洗い流していく。
何度か水を換えつつ、上海の髪から石鹸特有のぬめりが無くなった事を確認して、

「これでよし!」

大妖精は満足そうに笑った。別のバスタオルを持ってきて、やはり誰かにするのと同じ優しい手つきで、髪の水分を吸い取るように拭いてやる。
粗方水分が取れた所で、優しく撫でるように髪を拭き、彼女は上海を抱えて窓際へ。
嵐の後のちょっと強い風が、濡れた手に涼しくて心地良い。
窓から拭いてくる風で上海の髪を乾かしつつ、大妖精は腕の中の上海を見やる。
まだ出会って一時間程度。だが、抱き上げて持ち帰り、服を洗う為に脱がせ、タオルでくるみ、髪を洗ってやった。
この一連の行動で、大妖精の中にすっかり上海への愛着が沸いていた。

(……外にいたら、いつまた嵐が来るか分からない。だったら……いいよね?)

自分自身を説得するように大妖精は自らに問う。それから小さく頷き、彼女は意を決して上海に話しかけた。

 

「―――これからは、私と暮らそう!私は絶対に、あなたを捨てたりしないよ!」

 

それから大妖精は、ぎゅっ、と強く上海を抱きしめる。アリスとはまた違う温かさ。
――― 表情の無い筈の上海の顔は、ちょっとだけ驚いているように見えた。

―――それから数日が経った。
大妖精は、いつもの服に戻った上海と生活を共にした。
朝起きて顔を洗うのも、窓から外をぼんやり眺めるのも、部屋を掃除する時も、寝る時も、彼女は上海と一緒だった。
人形は物を食べる事は無い。だが、食事をとる時、大妖精は椅子をもう一つ用意し、向かいの席に上海を座らせた。
風呂は流石に一緒に入る事は出来ないが、その代わりに一緒のベッドに入って眠る。抱き枕代わりにもなって、とてもよく眠れた。
一日、また一日と過ぎる度に、段々と上海への愛着が深まるのを感じていたある日、大妖精は新たな本を借りる為に紅魔館の図書館へ行く事に。

「それじゃ、留守番お願いね」

相手が人形とは言え、何となくそう言ってみる。椅子に座った上海が、じっとこちらを見ているような気がした。
暫し上海の顔を見つめた後、大妖精は履きかけた靴を再び脱いで家へ上がる。

「あなたも、一緒に行く?」

そのまま彼女は右手に借りていた本、左手に上海を抱き上げて自宅を後にした。

(お人形でも、残されるのは寂しいよね)

そう思っての判断だった。上海と本を落とさないように湖を飛び越え、紅魔館へ。
中へ案内され、彼女は図書館の古びたドアを開ける。

「こんにちは」

「大ちゃん、いらっしゃい!」

控えめに挨拶すると、中からすぐに元気な声が返って来た。声の主が司書見習いの小悪魔である事は分かっている。
早速本棚の向こうからやって来た小悪魔は、大妖精が抱える物を見るなり歓声を上げる。

「わぁ、かわいいお人形!どうしたの、これ?」

可愛いと褒められた事が何だか自分の事のように嬉しくて、大妖精は少し照れながら答える。

「えっと、こないだ嵐が来たよね。その時に捨てられてたのを引き取ったんだ。いい子だよ」

紅魔館の門の前で、門番・紅美鈴にも散々自慢したばかりだったが、彼女は小悪魔にも同様の説明を展開する。
人形にいい子も悪い子もあるのかしら―――傍のテーブルで本を読みつつ話を聞いていた司書、パチュリー・ノーレッジはちらりとそんな事を考えた。
が、無論口には出さず、頭の中でかぶりを振った。それは野暮というものだ。

「私にも見せてくれる?」

何となく興味をそそられたパチュリーは、本から顔を上げた。

「いいですよ、はい!」

大妖精は嬉しそうな顔で寄ってきて、抱えていた人形をパチュリーへ差し出す。
と、その人形を見たパチュリーの表情が少し変わった。

(……このデザイン、どこかで……)

その人形は、何となく見覚えのある顔だった。が、詳しくは思い出せない。
すると、彼女の顔を見た大妖精が不意に尋ねてきた。

「どうかされましたか?」

人形の顔をじっと見つめるパチュリーが気になったらしく、その表情はどこか不安そうだ。
若干焦りつつ、安心させるようにパチュリーは笑って、人形を彼女へ返した。

「い、いえ、何でもないわ。ありがとう、可愛い人形ね。よく手入れもされているし、きっとこの子も幸せよ」

「ありがとうございます!」

再び人形を褒められ、大妖精の頭から、先程のパチュリーの表情に対する疑念は吹き飛んだようだ。
大妖精はまたしても嬉しそうに笑いながら、小悪魔と共に本を探しに本棚の海へ。
普段は割と早くに良さそうな本を見つけ、黙々と読み始める大妖精なのだが、この日の本捜索は難航している模様だった。
暫くして、少し困った表情で中央のテーブルに戻って来た大妖精に、パチュリーは声をかけてみる。

「良い本が見つからないの?もし良ければ、お薦めがあるのだけれど」

「本当ですか?是非!」

興味を持った大妖精の前に、パチュリーは分厚いハードカバーの本を二冊ほど積む。

「魔法を題材にした、長編ファンタジー小説よ。外の世界の本という噂もあるのだけれど……あなた、こういうの好きじゃないかと思って」

やや抽象的なタッチで、箒に跨る少年が描かれた表紙。大妖精は即決した。

「ありがとうございます!これ、暫くお借りしますね」

「ええ、お気に召して何より」

パチュリーは微笑み、再び手にした本の世界へ没頭していく。
大妖精はと言うと、テーブルに腰掛けて借りたばかりの本の上巻を開く。だが、その膝の上には上海人形。

「その子も一緒に読むの?」

「うん!」

尋ねる小悪魔に、大妖精は笑って頷いてみせた。丁度、上海の目線でも本が見える高さである。

(パチュリーさんがせっかくオススメしてくれた本だもの、きっと面白いはず。この子にも読ませたいな)

その行為に意味があるかは分からないが、大妖精はただそう考えただけだった。
結局この日の彼女はそれ以降、借りた小説を上海と共にずっと読んでいた。

―――さらに一週間が経過した。
大妖精と上海人形が出会ってから半月近く。上海は最早、大妖精の生活の一部だった。
朝、同じベッドで目を覚ますのも、上海を膝に乗せて本を読むのも、抱き枕代わりにするのも、当たり前の事。
そしてこの日も、大妖精は上海に話しかける。

「本当にきれいな髪。うらやましいなぁ」

大妖精は上海の髪を櫛で梳いていた。傍らには上海がつけていたリボン。
正直、ブラッシングする意味も無いくらいに櫛がスイスイと通るので、言葉通り大妖精は羨ましさすら感じていた。

「はい、おしまい」

櫛をしまい、大妖精はもう一度結ぶべく、上海のリボンを手に取る。
だが、彼女はそこで手を止めて思案顔。暫しの後、彼女はポケットからある物を取り出した。
それは、上海のものとは違って紐状デザインの、自分の黄色いリボン。

「ちょっといいかな?」

呟き、大妖精は上海の、向かって顔の右側の髪を手で軽く束ねた。そして、自分のリボンでその髪を括ってみる。
自分自身で普段やり慣れている為か、思ったほど手間は掛からずに作業は完了。

「うん、似合ってるよ!」

自分と全く同じサイドポニーテールになった上海を見て、大妖精は満足そうに笑って頷いた。
髪の色と、括った髪が大妖精本人よりも若干長い事を除けば同じ髪型だ。
と、その時―――


―――ピンポーン!


突如チャイムの音が鳴り響く。続いてドンドンと玄関ドアを叩く音と同時に、少女のものらしき元気な声が聞こえてきた。

「だ〜い〜ちゃ〜ん!あっそびっましょ〜!」

「は〜い、今開けるよ」

声を向けつつ大妖精は玄関へ。上海はとりあえず椅子に座らせる。
ドアを開けると、立っていたのは氷精・チルノ。

「大ちゃん、あそぼ!」

「いらっしゃいチルノちゃん!上がって上がって!」

「おじゃましま〜す!」

大妖精は笑顔で招き入れ、二人揃って玄関から上がる。
家に上がって開口一番、チルノは大妖精に笑顔で言った。

「大ちゃん、お人形見せて!」

外で遊ぶ事が多いのでチルノが家に来るのは久しぶりであった。その為、彼女はまだ大妖精ご自慢の人形を見た事が無かった。
この日家に来たのもそれが主な理由だろう。

「いいよ、はい!」

断る筈も無く、大妖精は嬉々として椅子に座らせていた上海人形を差し出す。
チルノは早速、上海の髪型に着目する。

「あっ、大ちゃんとおそろい!」

髪型を戻す前にチルノが来たので、上海の髪型は大妖精とお揃いのままだった。

「う、うん。髪の手入れしてる時に何となく。どうかな……」

「似合ってるし、すごくかわいいよ!」

少し心配そうな大妖精だったが、チルノに笑顔で肯定してもらって一安心。
ほっと息をついた大妖精に、チルノは上海を預ける。

「ねえ、ちょっと並んでみてよ」

「え?こ、こうかな」

上海を抱きかかえ、大妖精と縦に並んだ形になった。
大妖精と上海の顔を交互に見比べ、チルノは頷く。

「うん!こうして見るとこの子、大ちゃんの妹みたい!」

「えっ……」

どきり、として大妖精はチルノの顔を見つめるが、彼女はニコニコと笑っているだけ。
髪型が同じという所から来た発言なのだろうが、その言葉は大妖精の心に深く刻まれた。

「どうしたの?」

大妖精が何も言わなくなってしまったのを見て、チルノが不安げな表情で彼女の顔を覗き込む。
それを誤魔化すように、大妖精は上海の元のリボンを取り出した。

「な、何でもないよ。それより、こっちがこの子のリボンなんだけど……ほら、チルノちゃんのに似てないかな」

言いながら大妖精は上海につけた自分のリボンを解き、代わりに上海のリボンを結ぶ。
髪の後ろで大き目のリボンを結ぶので、髪の長さとリボンの色に目をつぶればそのシルエットは確かにチルノに少し似ている。

「わ、本当だ!あたいのリボンみたいだね」

「ほら、こうすれば……今度はチルノちゃんの妹みたいだよ」

そう言いつつ、大妖精は上海をチルノに抱かせてみる。

「えっ、ホント!?あたいお姉ちゃん!?」

大人ぶってみたい年頃のチルノはその言葉に敏感に反応し、嬉しさのあまり上海を抱きかかえたままくるくると回った。
その様子を笑って見ている大妖精だったが、回転で目を回したチルノが尻餅をついたのでさらに笑った。
上海を抱きかかえながら、チルノも自分が目を回したのがおかしくて、声を上げて笑う。
笑い声の絶えない部屋の中で――― 表情の無い筈の上海の顔は、ちょっと楽しそうに見えた。

夕食を共にしたチルノが帰宅し、一人になった大妖精。
だが、彼女に一人という意識は無かった。今は上海がいるから。

「………」

大妖精はカーペットの敷かれた床の上にぺたんと座る上海の顔を、向かいに正座してじっと見つめてみる。
こうしていれば上海が笑いかけてはくれないだろうか、などと期待してみたが何も起こらない。それもその筈、彼女は人形だ。
不意に脳裏に浮かぶ、昼間のチルノの言葉。


『―――こうして見るとこの子、大ちゃんの妹みたい!』


(いもうと……)

何度もリフレインするその言葉を噛みしめるように、大妖精は瞬きを二度、三度。
大妖精に、姉妹はいない。そもそも、血の繋がった家族と呼べる者は存在しない。妖精は、自然の中から生まれるもの。
だからこそ、その『妹みたい』という言葉が心にしみる。それまではただ可愛がっていただけだった彼女だったが、途端に『家族』として認識し始めていた。
相手は人形。物に過ぎない。だけど、何だか初めて『家族』が出来た―――そんな気がした。
大妖精は、上海の目をじっと見つめる。おもむろに両手で包むように抱え上げて、目の高さまで持ち上げた。
その状態でさらに暫く見つめあい、やがて、そっと口を開く。

「……これからも、私と一緒にいてくれる?」

そして、返って来る筈の無い返事を待ってみる。人形がそれを肯定する事も、否定する事も無い。それは大妖精にも分かっているつもりだった。
だが、持ち上げたせいで少し上下に揺れたせいか、上海が頷いたように見えて、大妖精はちょっと嬉しくなった。

「ごめんね、変な事訊いて。さ、本の続きでも読もっか」

誤魔化すように笑って、大妖精はパチュリーに借りた小説の下巻を手に取り、椅子に座った。そして、上海をその膝に乗せる。
パチュリーが薦めるだけあってその小説は本当に面白かった。借りてから毎日、上海と一緒に読み進め、下巻ももう残り半分を切っていた。
黙々とページを繰る大妖精の表情が時折若干の変化を見せる。それだけ、物語が目まぐるしく展開しているのだ。
一ページ、また一ページと読み進める度に、クライマックスへ向けた盛り上がりを見せる本の中の世界。
すっかり夢中になった大妖精がふと気付くと、時計は既に午前零時を指していた。彼女にしては中々の夜更かしだ。
残り五分の一程度になった下巻のページにしおりを挟む。いよいよクライマックス直前の部分だった。

「続きは明日ね。もう寝ようか」

膝に乗せた上海を抱き上げ、彼女はベッドへ向かう。
まずベッドに腰掛け、上海を枕の横に寝かせる。それから再び立ち上がって、部屋の電気を消した。
転がり込むようにしてベッドに入り、足元の布団を胸元まで引っ張り上げた。

「お話がどうなるのか、楽しみだな。明日、一緒に最後まで読もうね……」

大妖精はそう言うと寝返りを打って、すぐ横の上海へ顔を向ける。腕を伸ばし、上海を抱き寄せた。
抱きしめると、ほのかに石鹸のいい香りがする。今日、また髪を洗ってやったからだ。

「おやすみ……」

最後にそう呟くと、大妖精は目を閉じる。やがて、穏やかな寝息だけが真っ暗な部屋に響き始めた。

「―――上海……どこなの……?」

すっかりやつれた顔で、アリスは何度目か分からない呟きを漏らした。
あの嵐の日、アリスは暴風雨で荒れる森の中をひたすらに走り、上海人形を探した。だが、もう遠くへ飛ばされてしまったのか、見つからずじまい。
嵐は翌日には止んだが、いくら歩き回っても上海の姿はどこにも見えない。
森の外まで探索範囲を広げたが、上海の影も形も見当たらず、アリスはいよいよもって絶望し始める。
上海がいなくなってから、もう半月。

(私が、あんな事をしなければ……)

ぐずついた天気の中で、遠隔操作魔法の実験。今思えば、止めておくべきだった。
あの時は、長い事研究していた魔法がようやく完成した嬉しさで、外の天候が今にも崩れそうな事に気付かなかった。
アリスは己の愚かさを呪いつつ、今日も上海の姿を探していた。ふらふらとした足取りで、森の中を歩く。
目は充血し、睡眠不足なのは一目瞭然。食事も喉を通らず、日に日にやつれていくのが彼女自身にも分かった。
だが、あの嵐で吹き飛ばされた上海の事を思うといてもたってもいられなかった。
もしかしたら、もう誰かに拾われ、そして捨てられたかも知れない―――そんな最悪の未来を、アリスはかぶりを振って無理矢理に頭から追い出す。
そんな未来、考えたくも無い。人形は、アリスにとって家族同然。中でも、上海は彼女にとって最高のパートナーだ。
それがいなくなるというのは、即ち家族を失うのと同義である。

「どこ……」

ぽつり、と呟いたその時、上空から不意に声が掛かった。

「アリス……って、お前大丈夫か?」

アリスがだるそうに面を上げると、箒に乗った白黒の陰。魔法使い・霧雨魔理沙だった。
アリスはあまり多くは無い知人・友人にも上海の捜索を依頼していた。どんな小さな事でも教えて欲しい、と。
魔理沙もそれを頼まれ、その箒による移動力を駆使して上空から捜索を続けていた。
彼女の発言は、明らかにやつれ切ったアリスの顔を見て心配になったからだ。

「魔理沙……見つかった……?」

まるで嵐の前の曇天のようなアリスの重たい声。魔理沙はばつの悪そうな顔で首を横に振った。

「いや、まだだ」

「……そう……」

再びずぶずぶと沈み行くアリスの顔。それを見た魔理沙は、慌てたように声を張る。

「ああ、待て待て!だが、有力な情報を持ってきた」

「えっ……!」

アリスは再び顔を上げた。その瞳の奥に、僅かながら生気が宿る。
魔理沙は人差し指を伸ばし、アリスの顔を見る。

「パチュリーが、何か知ってるみたいだ。さっき図書館に行ってきたが、人形がどうの、って小悪魔に話してたのを聞いたぜ」

刹那、アリスの全身に活力が戻る。

「ありがとうっ!!」

それだけ言い残し、アリスは猛然と走って森を抜けていった。
残された魔理沙は苦笑い一つ、再び箒に跨る。

「こんだけ愛されてりゃ、人形もさぞ幸せだろうよ……」

「こんにちは、アリスさん。今日はど……」

「パチュリーは!?パチュリーに会わせて!!!」

紅魔館の門の前で、早速アリスは門番の美鈴に詰め寄った。
いきなり必死の形相で迫られ、美鈴は少したじろぐ。

「お、落ち着いて下さい……パチュリー様なら図書館にいらっしゃいます」

「分かったわ!!」

居場所を聞くなり、アリスは素早く美鈴の脇をすり抜けて紅魔館の玄関へ。
開けた玄関のドアを閉める事も忘れ、彼女は紅いカーペットの敷かれた廊下をひたすら走った。
以前魔理沙と共に来た事があったので、図書館の位置は分かっている。最短ルートを駆け抜け、アリスは乱暴に図書館の扉を開けた。

「きゃっ!」

ドア近くにたまたま居た小悪魔が驚いて短い悲鳴を上げたが、それに構わずアリスは図書館の中央へ。
いつも通りテーブルに座って本を読みふけるパチュリーの姿を見つけるなり、彼女はダッシュでパチュリーに肉薄。
いきなりその薄い肩を両手で掴み、前後に揺さぶった。

「ちょ、何……」

「上海は!?ねえ、私の上海はどこなの!?答えて!!」

「お、落ち着……んもう!」

アリスの手を振り払い、憮然とした表情のパチュリー。それを見たアリスはハッとした表情で俯く。

「ご、ごめんなさい……」

小さくなるアリスに、パチュリーは苦笑を見せた。

「……まあいいわ、言葉で説明されるより、あなたの目的がはっきり分かったし。まずは落ち着きましょう……小悪魔」

「はいは〜い」

最初こそいきなりの訪問者に目を白黒させた小悪魔だったが、すぐに人数分の紅茶を運んできた。優秀な司書見習いである。
カップを受け取って口に運び、一口紅茶を喉に流し込んでからアリスは口を開いた。

「いきなりごめんなさい。上海の行方について魔理沙が、パチュリーが何か知ってるって言ってたから。つい……」

「まあ、あなたの気持ちはよくわかるし、さっきの事は不問。それより……」

「……ええ。パチュリー、何か心当たりはない?どんなに小さな事でもいいわ」

必死なアリスの眼差しを受け、パチュリーはゆっくりと口を開いた。

「まず、その人形の特徴を教えてくれる?」

「えっと、目立つのは大きなリボン。髪の色は金色で、少し長め。それから……」

指折り、思いつく限り上海人形の特徴を述べていくアリス。それを黙って最後まで聞いてから、パチュリーは再び尋ねた。

「……私の考え、どうやら当たってたみたい。あなた、湖の大妖精は知ってるかしら」

「え……ああ、あの緑の髪をした大人しそうな。直接話した事は無いけど知ってるわ。時々森に友達と遊びに来るし」

答えながらアリスは、何故そんな事を尋ねるのか、といった表情。
しかし、続くパチュリーの言葉に、彼女は思わず身を乗り出すのだった。


「―――あなたの大切な人形は、その子が持っているわ」


―――ガタンッ!!

一旦浮いた椅子が床にぶつかる乾いた音が、薄暗い図書館に響き渡った。

「は……えぇっ!?本当なの!?」

信じられない、といった面持ちのアリスはテーブルに大きく身を乗り出して尋ねた。
するとパチュリーは、ふぅ、と短く息をつく。

「私が嘘をつく理由なんてないわ。必死に大切な物を探す魔法使いをいじめるような悪趣味は持ち合わせていないもの」

「ほ、本当なのね!?」

「何度も同じ事を言わせない」

パチュリーの言葉で、思わずアリスは祈るように胸の前で手を組む。

「ああ、上海……良かった……でも、どうして……」

それを聞きつけ、再び本に戻りかけていたパチュリーが顔を上げた。

「何でも、嵐の後に湖の傍に転がってたのを拾ったらしいわ。本人は誰かに捨てられたものだと思ってるみたい。しっかり手入れもされていたわ」

「そうだったの……待っててね上海、今すぐ行くわ!」

「あ、でも……」

すっかり元気を取り戻したアリスとは裏腹に、パチュリーは何やら困った顔をしていた。

「どうしたの?」

何かを言いかけたパチュリーにアリスが尋ねたが、少し考えてからパチュリーはゆるりと首を横に振った。

「……何でもないわ。早く行ってあげなさい」

「ええ」

アリスは頷き、カップに残った紅茶を一息で飲み干した。

「パチュリー、今度必ずお礼するわ!本当にありがとう!それじゃ!」

そのまま足早に図書館を出て行ったアリスを見送ると、パチュリーは自分のカップに口をつける。
一口紅茶を飲んでから、彼女は天井を仰いだ。

「……良かったのかしら」

「何が、ですか?」

ずっと事の成り行きを脇で聞いていた小悪魔が尋ねると、パチュリーは少し目を伏せる。

「―――あの子、その人形をとっても大事にしていたわ。でも、持ち主が現れたらきっとあの子はそれを返すでしょうね。どんなに大切にしていたとしても」

「あ……」

大妖精の性格は小悪魔もよくよく知っている。

「でも、それはアリスも同じだし、何よりあの人形はアリスのもの」

もやもやとした思いを断ち切るように、パチュリーは読みかけの本を開いた。

「難しいものね……」

活字を追い始めたパチュリーはぽつりと呟いたが、再び本から顔を上げた。

「小悪魔、あの子を慰める役はあなたに一任してもいいかしら。私は口下手だから」

「わ、わかりました」

小悪魔が頷いたのを確認し、パチュリーはまた本へ視線を落とす。
そして一週間くらい前、小説を借りに来た時の大妖精の顔を脳裏に浮かべてみる。
幸せそうな顔で、人形を可愛がり、自慢していた。

(……ごめんなさい)

謝罪してみる。どうしてかもよくわからないままに。
パチュリーの活字を追う速度は、いつもより大分遅かった。

息を切らせながら、アリスは湖のほとりを走る。大妖精の家は、確かこの辺だった筈だ。

(まずは上海に謝らないと……それに、拾ってくれた子に何てお礼したらいいかしら)

考えながら走るアリスの顔は必死そのもので、一刻も早く愛しの上海人形が無事であるという事実を確認したいという思いで一杯であった。
時は夕刻。だが、普段は辺りを蜜柑の色に染め上げる太陽も、分厚い暗雲に阻まれてその姿を拝めない。今にも泣き出しそうな空模様。
やがて、走り続けるアリスの眼前に一軒の家が見えてきた。

(あそこかしら……)

アリスは家の前で歩を止めた。決して走った事だけが理由ではない胸の高鳴りを押さえつける。
本当にこの家であっているのか、そして上海はいるのか―――それを確かめる為、彼女は窓からそっと家の中の様子を窺った。
人影は見えない。まめな人物が住んでいると分かる、小ぎれいな内装。部屋を軽く見渡してみたが、上海の姿は無い。
どうするべきか、とアリスが思考を巡らせ始めたその時、唐突に家の奥から声が聞こえてきた。

「よし、準備完了!しばらく暇だし、本の続きを読もうね。いよいよクライマックスだよ」

少し嬉しそうな、誰かへの話し声らしき言葉と共に、家の奥―――台所らしい―――から出てきたのは、確かに話に聞く大妖精。
そして、その腕に抱えられた物に気付いたアリスは息を詰まらせた。

(―――上海!!やっと会えた……!!)

彼女の腕の中には、この半月間ひたすら捜し求めた上海の姿が確かにあった。見間違う筈も無い。
嵐の中へ消失する前と同じ服装だが、全く汚れた様子も乱れた様子も無く、見る限り髪も綺麗に整えられている。

(この子、本当に上海を可愛がってくれてるのね。話しかけるくらいに……いい子に拾われて良かった……)

人形師としては是非とも彼女と語り明かしたい気分になったが、それよりも今は上海が先決だった。
アリスは改めて玄関前へ回り、穏やかにドアをノックした。


―――コン、コン。


「は〜い」

中から声が聞こえたかと思うと、すぐに目の前のドアからガチャリ、と開錠音。
玄関のドアが開かれ、アリスと大妖精の目が合う。
夕刻に、見知らぬ少女の訪問。驚いただろう大妖精が何か言う前に、アリスは丁寧にお辞儀した。

「初めまして。私はアリス……そこの森で人形師をやっているの」

「は、初めまして。大妖精です。名前はないので大妖精で結構ですよ」

慌てて大妖精も一礼。その様子を少し微笑ましく思ってから、真面目な顔に戻ってアリスは本題を切り出した。

「紅魔館のパチュリーから聞いたのだけれど……あなた最近、人形を拾ったとか……」

「ええ、そうなんですよ!ちょっと待ってて下さいね」

ぱぁっ、と顔を輝かせ、大妖精は一旦家の中へ。
すぐに彼女は返って来た。

「ほら、この子です。とってもかわいいんですよ?」

嬉しそうにニコニコと笑いながら、腕に抱くのは紛れも無く上海人形。
人形の話題になった途端顔を輝かせた大妖精の様子を見て、アリスは少しだけ複雑な気分になる。
だが、目の前には無くした大切な人形。堪えきれず、彼女は大妖精の目を見て口を開いた。

「その、実は……」

「何ですか?」

笑顔を崩さず、首を傾げる大妖精。

 

「―――その人形、私の物なの……」

 

その瞬間―――大妖精の顔から、全ての感情が消え失せた。

「えっ……」

呟き、表情を失った顔でアリスと上海の顔を何度も見比べる。
アリスは話を続けた。

「嵐の時、事情があって外へ出したのだけれど……強い風に飛ばされて、ずっと行方不明だったの。今日まで、ずっと……」

「………」

呆然とアリスの話を聞く大妖精。

「とても大切な人形だったから、必死に探していたんだけれど……拾ってくれた子がいるって聞いて、それで……」

「……なぁんだ」

「……へ?」

微かな呟きを聞き取り、思わず聞き返すアリス。
大妖精が顔を上げる。その表情は、笑っていた。

「そうでしたか……この子は、捨てられたんじゃなかったんですね……」

笑顔を浮かべつつ、大妖精は腕の中の上海を愛おしそうに撫でる。

「そうですよね。こんなかわいい子が捨てられるはずありませんよね……良かったね、落とし主さんが迎えに来てくれたよ」

上海に語りかける大妖精の声が、少し震えていた。
そして、アリスも分かっていた。大妖精の笑顔は、とてつもなく無理をして作っている笑顔だという事に。
あそこまで可愛がっていた人形との生活が、『落とし主の登場』という、この上なく正当な理由で幕を閉じるのだ。
アリスは知らないが、大妖精はこれからもずっとこの人形と一緒にいる気持ちを固めたほど、上海を可愛がっていたのである。
だが、目の前には人形の正当な持ち主。律儀な大妖精でなくとも、返却しなければいけないという事は分かり切っている。
そしてそれは、上海との楽しい生活の終わりを意味するのだ。文句のつけようが無い幕切れ。だから、笑う。
ここで泣きでもすれば、持ち主に罪悪感を残す事になる。駄々をこねるなど持っての外。
笑顔で、ついさっきまで可愛がってた大切な人形を差し出す―――それ以外に選択肢は無い。

「アリスさん……人形、お返しします。今までずっと持ってて申し訳ありませんでした」

あくまで笑顔のまま、震える手で大妖精は上海を差し出した。
それを一瞬躊躇ってから、アリスは優しく受け取る。久しぶりに感じるその重みに、思わず言葉が口をついて出た。

「……おかえり、上海」

すると、大妖精が再び顔を上げる。

「上海、っていうんですね、この子……」

その直後に、本当に小さな声で呟いた、『そういえば、名前つけるの忘れてたなぁ……』という言葉が、アリスの耳に焼き付く。
自分は、この上海人形の正当な所有者だ。自分が心を込めて作り、ずっと可愛がって、大切にしてきた。
晴れの日も、雨の日も、笑顔の日も、泣いた日も―――上海とアリスは一緒だった。沢山の思い出が詰まった、大切な人形が帰ってくるのだ。
失せ物を拾ってくれた人から、それを受け取るだけ。当たり前の事だ。何の落ち度も無い、筈だ。
なのに―――

(―――どうして、こんなにも胸が痛いの?)

泣きそうな顔で笑顔を作る、対極的な表情をない交ぜにした顔の大妖精を見ていると、胸が締め付けられる思いになるのだ。
それは、人形師の勘のようなもの。目の前の妖精が、嵐の翌日に上海を拾ってから、どれほど大切にしてくれたかが伝わって来る。
雨に濡れ、泥にまみれた服を着た人形。普通、誰も見向きはしない。
それを大妖精は可哀想だと拾い上げ、今日までずっと可愛がってくれたのだ。そこに、生みの親であるアリスに負けない程の愛を詰め込んで。

(だけど、私は―――)

アリス自身も、上海の帰りをどれほど待ちわびた事か。いや、待ってなどいない。自ら必死に探した。
探して、探して、泣いて、探して、諦めかけ、また探して―――やっと、やっとの思いで見つけた。
そこには、譲れないものと想いがある。相手が上海を拾ってくれた、恩人であったとしても。

「拾ってくれただけじゃなくて、とても可愛がってくれたって、知ってるわ……本当に、本当にありがとう」

それを聞く大妖精の顔は、やはり笑っている。
大切な人形の主が現れた事と、捨てられたという訳では無かったという事を喜ぶ反面、自分と上海が離れ離れになる事をこの上なく悲しむ、そんな不思議な表情。

「私は、近くの森に住んでる。せめて、時々この子に会いに来てやってくれないかしら」

それがアリスの精一杯だった。

「あなたが来てくれれば、きっと―――いえ、絶対にこの子は喜ぶわ。だから……」

「―――ありがとうございます」

言葉の途中だったが、大妖精が口を開いた。

「あの、それじゃあ……たまにでいいので、会いに伺っても……」

「むしろ、私からお願いするわ。上海と一緒に、待ってるから」

「……はい。今日まで、本当にありがとうございました」

何故かお礼を述べる大妖精に深々と頭を下げ、アリスは踵を返すと早足で森へ向かって歩き出す。
彼女の背後から、ドアを閉める音は聞こえて来ない。見送っているのだろう。
やがて、アリスの後姿が木々に阻まれて見えなくなった頃に、ドアが閉まる。
気になったアリスが戻って大妖精の家を見た。閉まった玄関のドア。きっと、あの向こうで彼女は泣いている。
―――その時、まるで大妖精の気持ちを代弁したが如く、一滴の雨がアリスの頬を打つ。

「やだ、早く帰らなきゃ」

アリスは腕の中の上海を今度こそ無くさぬよう抱え直し、一目散に駆け出した。
すぐに雨は強くなり、アリスと腕の中の上海を濡らしていく。
驚異的なスピードで森の中の自宅へ帰り着き、アリスはタオルを取り出して自分の髪を拭う。
それから、やっと帰って来た上海を拭こうとして―――その手が止まった。
上海は、顔だけが妙に濡れていた。首から下は、アリスがその腕に抱えていたから、顔にだけ雨が多く降り注いだだけかもしれない。
だが―――


「上海……あなた、泣いてるの?」


じっと上海の濡れた頬を見つめ、アリスは問いかけた。返事は勿論無い。だって、彼女は人形なのだから。

コチコチという時計の針の音だけが、静か過ぎる部屋に響く。
ベッドに腰掛け、大妖精は何度目か分からないため息をついた。

(……元の生活に戻っただけ……)

大妖精は必死に、自分自身に言い聞かせる。だが、上海がいた頃の生活が楽しくて仕方が無かった。
その事をはっきり覚えている限り、その説得を彼女の心は頑なに受け入れようとはしない。
事実、毎日抱いて眠っていた上海がいなくなったせいで、あれからまともに眠る事が出来ない。枕を抱いてみても駄目だった。
上海人形がアリスの下へ帰って、今日で三日。

(会いに来ていいって言ってくれたし、人のものなんだから返さなきゃダメだよね……)

淡々と己に言い聞かせるが、あまり効果は見られない。それほど、上海の存在は大妖精の中で大きくなっていた。

(きっとあの子も、アリスさんの所へ帰れて幸せだよね……今までがきっと不幸だったんだ)

焦点の定まらない瞳で彼女は机の上を見た。
そこには、パチュリーから借りた長編小説。しおりの位置は、アリスが訪ねてくる直前に挟んでいた位置から動いていない。

(一緒に最後まで読もうね、って約束したっけ……)

いよいよクライマックスを迎える、という寸前の場面で、物語は止まったまま。
ずっと上海と一緒に読んできたのに、一人で先に最後まで読んではいけない。彼女はそう考えていた。
もう一度、一緒に読む機会が訪れるかなんて分からない―――それを承知の上で。

(そろそろ寝なくちゃ……)

大妖精は、部屋の電気を消すべく立ち上がる。いつまでも引きずったってしょうがない―――そう割り切れたらどんなに楽だろう。
今すぐにでも、上海が会いに来てくれないだろうか。
有り得る事の無い想像をしてしまい、大妖精は苦笑した。世界で一番悲しい苦笑い。
人形が、どうして自分の足でここへ来るというのか。そんな事を考えるなんて、自分は疲れてる。
無理矢理にでも眠ろうと、彼女が壁に据え付けられた照明のスイッチに手を伸ばした、まさにその時だった。


―――コン、コン。


優しいノックの音が、音の無かった室内に響き渡った。
こんな夜更けに来客かと、大妖精は玄関へ向かう。

「はい」

小さくノックの主に答え、大妖精は鍵を開けた。
暗い表情を何とか押し隠し、ゆっくりとドアを開いて―――

 

「……え?」

 

―――硬直した。
目の前には、誰もいなかった―――正確には、人は誰もいなかった。妖怪でも、妖精でもない。
そこにいたのは、人形。大妖精が嵐の後に拾って、可愛がって、皆に自慢して、一緒に本を読んで、持ち主の下へ帰って行った、上海人形。

「……え、え?」

瞬時に大妖精の頭の中を、無数の疑問符が埋め尽くした。

―――何故、アリスの下へ帰った上海がここにいる?
どうやってここまで来た?この子は人形ではなかったのか?
誰かが置いていったのか?じゃあ誰が?何の目的で?

その数々の問いに答えを見つける事が出来ず、呆然と立ち尽くす大妖精。
しかし、彼女はさらに驚愕する。

―――ふわり、と上海の体が宙に浮いたのだ。

「えっ……えぇ!?」

(……私は、夢でも見ているの?)

知らぬ間に眠っていたのだろうか。大妖精は手の甲をあらん限りの力で抓ってみた。凄く痛い。
よく見れば、上海は大きなバスケットを抱えている。そこから、何とも香ばしい香りが漂ってきた。
上海は呆然とする大妖精をよそに、ふわふわと浮いたまま家の中へ。

「ど、どうして……?」

慌てて上海を追う大妖精。すると、上海は手にしたバスケットを机の上へ置く。
大妖精が駆け寄り、中を覗き込む。するとそこには手作りと分かる、山ほどのお菓子が詰め込まれていた。
さらに、一枚のメモ。


『あなたが上海に注いでくれた愛と、同じくらいの感謝を込めて     アリス・マーガトロイド』


それを読んだ大妖精は、目の前でふわふわと浮いたまま、大妖精をじっと見ている上海に恐る恐る話し掛けた。

「……あなた、お人形だよね。どうして動けるの?」

しかし、上海は何も答えない。人形だから当然かも知れない。
すると上海は、バスケットの中から一本のペンを取り出すと、アリスのメモをひっくり返して机の上に置いた。
人形が動く。それだけでこの上無い程の衝撃を受けた大妖精だった。
これ以上、何があっても驚かない―――そう思っていた。
上海は手にしたペンで、メモの裏に何かを書き込んだ。小さな子供のようないびつな字で、ただ一言―――

 


『またいつか、あなたと』

 


世界が水性のインクで塗りつぶされたかの如く、大妖精の視界が瞬時に滲む。
ぽろり、ぽろりと涙がこぼれ、メモの端に落ちて吸い込まれていく。

(私と過ごした、あの毎日は―――)

―――上海にとっても、かけがえの無い日々だった。それが分かっただけで、もう大妖精は十分だった。何も望むものは無い。
ぽろぽろと涙をこぼし続ける大妖精にぺこりとお辞儀をして、上海はそのまま玄関から出て行こうとする。

「……ま、待って……」

涙声で、大妖精がそれを呼び止めた。
くるりと振り向いた上海と、頬を濡らす大妖精の視線が交錯する。暫し見つめ合って、大妖精は口を開いた。

「……あの本、ずっとあのままにしておくから……またいつか、一緒に読んでくれる?」

上海は小さく―――だが、はっきりと頷いた。
それを見た大妖精は安心して、泣き笑いの表情でただ涙をこぼす。
上海はそんな大妖精を暫くの間、じっと見ていた。まるで、その姿を忘れぬよう、目に焼き付けるように。
それから上海はもう一度深くお辞儀すると、踵を返して玄関から外へ出た。
家を離れ、ふわふわと浮遊を続ける上海を、草の陰から飛び出してきた誰かがしっかり抱きとめる。

「……今度こそ、上手くいってよかった」

―――アリスだった。
今までの上海の行動は、全てアリスの遠隔操作魔法によるもの。
字を書かせるなどという芸当は流石に慣れていないのでかなり歪んでしまったが、それでも大成功だった。
―――無論、この事実を大妖精は知らない。

「帰りましょう、上海」

上海を抱きかかえたまま、アリスは森へ向けて歩き出す。
しかし不意に立ち止まると、再び大妖精の家を見た。明かりはまだ落ちていない。
上海に向けられた大妖精の言葉を、アリスも聞いていた。彼女の家へ向けて、ぽつりと一言。

「―――待っててね。あなたの為にも、私は必ず……」

そこから先は、突然吹いた風の音で掻き消されてしまった。
だがアリスは力強く頷き、今度こそ森へ向けて歩き始める。
彼女に抱えられた上海の表情は―――暗くてよく見えなかった。

窓から差し込む日差しは、既に強くなっている。
ベッドで目を覚ました大妖精は、上半身を起こしたままぼーっと前方を見つめている。
昨日の夜、少し遅くまで起きていた気がするので、ちょっと寝坊してしまった。

(……あれは、夢?)

人形。心を持たない、人の形。自我を持たない、思うがまま、などといった比喩にも使われる。
人形が自らの意思でここまで飛んで来て、自分の想いを伝えてきたなど、にわかには信じられない。
あれは夢だった。上海の事を考えるあまりに見た、自分の希望だと。そう考えるのが自然だ。
だが次の瞬間、ハッと何かに気付いた表情の大妖精はベッドから跳ね起き、机に駆け寄った。
そこには中身の少し減ったお菓子がいっぱいのバスケット。そして、端の方が濡れて乾き、皺が寄ったメモ。
メモには確かに、下手な字で『またいつか、あなたと』の文字。

(……夢じゃ、ない……)

その言葉を脳内で反芻し、大妖精は素早く服を着替えた。
黄色いリボンで髪を括り、外へ飛び出す。

(夢じゃ、ない!)

大空へ飛翔し、彼女は森を目指した。
ふと見ると、森の入り口に魔理沙の姿がある。大妖精は急降下した。

「魔理沙さん!」

「おわっ!!急に空から来られるとびっくりするぜ」

驚き、飛び退いた魔理沙に一言謝ってから、大妖精は尋ねた。

「あの、アリスさんのお宅はどちらですか!?」

「へ?あ、ああ……アリスん家ね。それなら、その入り口から森に入って……」

身振り手振りを交えて説明する魔理沙。

「ありがとうございますっ!」

魔理沙に一礼し、大妖精は森の中へ飛び込んだ。

「……大ちゃんとアリス?珍しい組み合わせだな……」

残された魔理沙はただ首を傾げるばかりだった。
その一方で、教えられた道順に森を駆け抜け、大妖精はついにアリスの家へ辿り着く。
玄関のドアを軽く二、三回ノック。すぐに中から返事があった。

「あら、もう来てくれたの?」

ドアを開けて開口一番、アリスがニッコリ笑いかける。
彼女に招かれるまま、大妖精はアリスの家へ。

「お邪魔します」

言いながら少し部屋を見渡してみる。本棚には難しそうな魔道書や、普通の小説。
テーブルには紅茶のカップとソーイングセットが置かれ、脇には端切れや糸が詰め込まれた箱。
そして、ソファの上にちょこんと座る上海人形。少しの間見つめてみたが、全く動かない。

「ほら、上海も喜んでるわよ」

笑顔を崩さぬアリスだったが、ここで不意に申し訳無さそうな声色で切り出した。

「そういえば、今日あなたにお礼を届けようと思ってたんだけど……ごめんなさい、泥棒が入ったのか知らないけど、どこかへ行ってしまったの」

えっ、と思わず呟き、大妖精はアリスの顔を見た。
それからゆるりと首を横に振る。

「いえ、気にしないで下さい……あの、つかぬ事をお伺いしますが……」

「いいわ、言ってごらんなさいな」

「その、お礼って何を用意して下さったんですか?」

失礼な質問かもしれないとは思ったが、訊かずにはいられなかった。
するとアリスは苦笑いしながら答える。

「んと、バスケットいっぱいのお菓子を作ったの。お礼のメモ入りで……お腹を空かせた泥棒だったのかしら」

それを聞いた大妖精は驚きで目を見開いた。

「私は魔理沙の線が濃厚だと思ってるんだけど……あら、どうかした?」

「い、いえ!た、楽しみにしてますっ!」

驚愕の表情を浮かべた大妖精の顔を覗き込み、尋ねるアリスに慌てて彼女は手をぶんぶんと振る。
それから落ち着いた大妖精は、再びアリスに問い掛ける。

「アリスさん、一つ訊いてもいいですか?」

「何かしら?」

大妖精はアリスの顔を正面から見据え、真剣な表情で続けた。

「―――人形に、心はあると思いますか?」

一瞬驚いたアリスだったが、すぐに深く頷く。

「ええ、あると思う。人形は喋れないし動けないからそれをうまく表現できないだけで、きっと心があるに違いないわ」

自信たっぷりに答えるアリスの顔を見て、大妖精も久しぶりに心の底からの笑顔を見せた。

「……私も、そう思います!」

それから大妖精はソファに近付き、優しく上海を抱き上げる。
その耳元で、彼女はそっと囁いた。

「昨日はありがとう。またいつか来てくれる日を待ってるからね」

すると、アリスが再び口を開いた。

「もし人形が魔法か何かで動けるようになったら、心のままに動き出すと思うの。
 私はね、もし上海が動けるようになったら……真っ先に、あなたの所へ行くと思うわ」

その言葉に驚き、大妖精はアリスの顔を見た。アリスはただ、優しい笑みを浮かべているだけ。
急に目の前の上海が愛しくてたまらなくなり、大妖精は笑顔で思いっきり上海を抱きしめた。


大妖精からは見えないが、表情の無い筈の上海の顔は―――何だか、笑っているように見えた。


―――月日は、あっと言う間に流れていく。
だが、多少の時が流れたくらいで、人や妖怪の営みはそう簡単には変わらない。
事実、アリスは三年前と変わらぬ家に住み、三年前と同じように人形の制作や、魔法の研究に没頭している。
しかし、この日のアリスは少し様子が違った。

「……できた……」

少し電気を付け忘れているせいで少し薄暗い部屋の中で、机の上の無数の数式や図式が書かれた紙を前に、アリスは声を震わせた。

「……出来た!!やっと完成したわ!!人形の完全自律プログラム!!」

ついにこの日、アリスは長年の夢―――人形に自我を持たせ、完全自律で動かすという魔法を完成させたのだ。
かなり前からちょくちょく進めていた研究だったが、本格的に力を入れ始めたのは三年前からだった。
この三年間、とにかく一刻も早くこの魔法を完成させたい一心で研究を続けた。
毎日毎日努力と勉強を重ね、この日、ついに夢が叶うのだ。非常に高度な魔法だが、こんなに早く完成したのは情熱と努力の賜物としか言いようが無い。

「早速実験よ……最初はもちろん、あなた」

喜びを爆発させたのも束の間、アリスは途端に真剣な表情に戻り、ソファに座らせた人形を抱き上げて机の上に座らせる。
それは、一番のお気に入りである上海人形。服装は三年前と同じデザインで、目立つ大きなリボンも変わらない。
緊張の面持ちで紙に魔法陣を描き、その上に上海を座らせる。
それから紙を取り出して、震える声で呪文を詠唱し始めた。
室内に青白い光が現れ、段々とそれらが上海の体の中へ取り込まれていく。
そして、一際強い光が上海から放たれ―――光は、収まった。
成功したのか分からず、固唾を呑んで上海の様子を窺うアリス。
しかし、不意に上海の瞼がぴくりと動き―――瞬き。
次の瞬間、上海は自らの手足を使い、立ち上がった。実験は成功だ。

「上海、どう?」

恐る恐る話しかけると、上海は愛らしい笑顔を見せる。

「―――大丈夫です。おはようございます、アリス様」

「ああ、上海!あなたとお話出来る日が来るなんて!」

感激のあまり、アリスは上海を思いっきり抱きしめる。上海もその小さな手を必死にアリスの肩へ回そうとする。
暫しの後体を離し、アリスは少し屈んで机に再び座る上海と目線を合わせた。

「ところで上海。あなた、今までの記憶はある?」

「記憶……」

上海は生まれたての心で、人形だった頃の自分を必死に思い起こしてみた。確かに、いくつか思い出せる出来事がある。
その中でも、一際強い光を放つ思い出が、二つ。一つは勿論アリスとの。そしてもう一つは―――

「……はい、あります。いくつか思い出せる事が」

「そう……」

するとアリスは、微笑み一つ浮かべて続けた。

「じゃあ上海。あなた、今行きたい所は……私以外に会いたい人は、いるかしら?」

その瞬間、上海の心の中で何かが動いた。消せない光を纏った、人形だった頃の思い出。

「……あります!行きたい所が……会いたい人が!!」

「分かってるわ」

アリスはどこまでも優しい笑顔のまま、上海をそっと抱き上げる。

「あの時は、私が動かした。けど、今は違う。あなたの自由に、体を動かせる。喋れる。そして、心がある」

そしてアリスはそっと、上海を床に下ろした。

「今度は―――あなたの心で、あの子の所へ行ってきなさい」

上海はゆっくり顔を上げ、満面の笑みで頷いた。

 

「―――はいっ!!」

 

―――多少の時が流れたくらいで、人や妖怪の営みはそう簡単には変わらない。
事実、大妖精はこの日も三年前と変わらず七時に起床し、てきぱきと家事をこなしている。
家事が一段落し、大妖精は窓から空を見上げた。昨晩から降り続いた大雨もすっかり上がって、雲一つ無い青空。風が土の匂いを運んでくる。
思えば、三年前のこんな日だった。自分がびしょ濡れになっていた人形を拾ったのは。

(いい天気。毎日こんな天気なら、あの子がアリスさんと離れ離れになる事なんてないのにな)

ぼんやりと考え、大妖精はちょっとだけ笑ってみる。
三年前、最初は結構アリスの家に通っていた大妖精だったが、アリスが毎回難しそうな研究をしているので、邪魔にならぬよう訪問を控えた。
長い事上海にも会っていないが、人形に心があると信じる彼女はもう寂しくない。きっと、上海も自分の事を覚えていてくれるはず。
大妖精はふと思い立ち、机の引き出しを開ける。そこには、三年前にパチュリーから借りた長編ファンタジー小説が上下巻揃って未だそこにあった。
またいつか、魔法の力を借りて上海が来てくれる―――そう信じる大妖精は、その日までこの本を手元に置いておきたかった。
パチュリーに懇願すると彼女も何かを察したらしく、この小説に限り貸し出し期間の無期限延長を許してくれたのだ。

『ま、どうせ魔理沙よりは早く返してくれるでしょう』

とは、パチュリーの弁だ。あの時、何も訊かず一緒になってパチュリーに頼んでくれた小悪魔には今でも感謝している。
しおりの位置は、クライマックス直前を迎えたあの日のまま。だが今はそのページに、しおり以外にもう一枚紙片が挟まっている。
少し古びたメモ用紙。大妖精はそれをつまみ上げ、四つ折になったそれを開いてみる。
内側になった面の中央に、子供のような文字で一言。

『またいつか、あなたと』

嬉しそうにクスッと笑って、大妖精は紙片を元通りに畳んで本に挟んだ。
それから引き出しに本を戻し、伸び。

「あ〜……そろそろ、お洗濯でもしよっと!せっかくいい天気なんだし!」

家事の続きがあった事を思い出し、大妖精はスキップのように軽い足取りで、洗面所へ消えていった。

―――夏の終わりの強い日差しが、小さな体を照りつける。
森を抜けた上海は、急に降り注いできた陽光に少し驚きつつ、ふよふよと飛んでいく。
やがて上海の眼前に、小さな一軒家が現れる。記憶にある家。何だかとっても懐かしい。
無い筈の心臓が高鳴る感覚に、上海は胸を押さえた。この家の中に、自分の大切な何かがある―――そんな気がするのだ。
確か、大切な約束をした筈だ。それを果たさなきゃいけないし、何よりも今度は『自分の心』で話がしたい。今は、筆談の必要もない。
上海が玄関ドアの前に立った時、大妖精は丁度洗濯物を干し終え、部屋へ帰ってきた所だった。


―――コン、コン。


穏やかなノックの音が響く。

「あ、は〜い!」

耳に馴染む、優しい声。上海は思わず、うっとりと目を閉じた。
ガチャリという開錠音すらも愛おしく感じて。


―――そして、ドアが開く。

 

 

 

――― 表情の無かった筈の、上海人形。気のせいなんかじゃない。その顔は今度こそ、はっきりと笑っていた。


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